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芸術作品とは何か

「自身の作品を規定し尽くしてこそ作家だ」と言うひとがいます。

つまり、作品におけるすべてをコントロールし、偶然性のようなものを排除してこそ、それはその作家の作品と呼べるのだ、という考えのひとです。

しかし、人間の能力の限界からして、作品が表現するところのすべてを完全にコントロールすることは不可能(コントロールどころか、作家は自身の作品のことすら完全には知り得ない)ですし、仮に作品の内容をすべてコントロールできたとしても、受容文脈は文化や時代で変わってしまうので、結果的に含意するものとは別の読み取られかたを避けられません。文化や時代によって、新たな意味が付与される可能性、作家はこの点をコントロールできません。

僕は、自分の作品であっても、それが自分のコントロール下にあるとは思っていません。

自分の身体ですらコントロールしきれない人間(急な便意をコントロールできるひとに会ったことがありません)が、切り離された外部である作品をコントロールしきれるはずはなく、認識能力の限界からも、自分の作品の表すところのすべてを知ることはありません。

人間の感覚器官の不完全性(例えば、人間の視覚は、現実には存在するはずの赤外線と紫外線を捉えられません)、個人による感覚器官の差異からして、人間は物理世界そのものを、身体によって歪めたかたちでしか経験できないことを想定すれば、上記のことはこれ以上説明を必要としないでしょう。

僕は、作品とは「人間が外部世界に触れたその反応としての響き」であると考えています。

つまり、作家とは楽器であり、現実世界が干渉して鳴らした音が作品であるということです。

作品とは、「現実を作家が屈折させることでできあがる像である」と言ってもよいでしょう。

そうなると、作家は変換装置に過ぎません。作品をコントロールし尽くそうという意図は雑音になってしまいます。

作家は変換装置に過ぎません。ただし、変換装置は重要な仕事を請け負います。

世界そのものは混沌としていて、僕らにはうまく認識できません。僕らが認識する時、世界はその壮大さを失い、人間の認識能力におさまるちっぽけな秩序となります。

世界本来の姿である壮大な混沌、そこに明確な輪郭を与えるのが作家の仕事です。

つまり、世界という混沌を、人間の認識能力で矮小化される手前で受け止め、別のアプローチで表現し直す、ということです。

ここで言う明確な輪郭は、自明性というモヤを取り払うこととも言えます。

自明性とは「当たり前だと思われていること」です。

芸術作品は、当たり前だと思われていることに疑いを突きつけます。

「その『当たり前』の根拠はなんだ?」と。

自明性の海を漂っているひとには、芸術は不快に(少なくとも快感ではない)思えることがあります。

ゲームだと思って、当たり前だと思えることを、一度疑ってみる。それが芸術鑑賞の一歩目になります。

芸術鑑賞に必要なのは「センス」や「感性」よりも、自明性への疑念です。

抽象的な話が続きました。具体的な話、作家の技術についても触れましょう。

技術的な鍛錬は、作家の未熟さが音を濁らせてしまわないための、像を歪めてしまわないためのものです。

世の中では技術こそが大事である、と、技術はアクティブなものと思われがちですが、実際は、必要なら使う、パッシブな手段です。

技術は目的ではなく手段であることに注意してください。

「芸術は爆発だ」が、作品として他者に伝える際に必要であればそれを整えるため技術を使おう、ということです。

さて、作家は変換装置だと言いました。

しかし、同時に、作品とは作家の価値観のあらわれでなければなりません。作家は空っぽでは変換装置として機能しないのです。

そのひとの生きる意味と結びついたような強い価値観。それが作品の強度になります。

作家の価値観の強度が捉えようのない現実世界に輪郭を与え、鍛え上げられた技術が、余計な成分を濾過し、他者に伝わる作品になる。

作家が作品を支配するのではなく、作家は作品(芸術)に仕える者です。

結論です。

芸術作品とは何か。

芸術作品とは、本来捉えきれない世界を、人間にギリギリ捉えられる範囲に(四次元を三次元に変換するように)落とし込んだイデアの影のようなものです。

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