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カメラはただの箱か

フィルムカメラを使うひとの一部は「カメラはただの箱である」と言います。

デジタルカメラ全盛の現代にあっては考えにくいことですが、理屈はこうです。

つまり、フィルム写真の画質は、機材面では、レンズとフィルムの組み合わせでほとんど決まる。それならば、カメラとはただ正常に動作する暗箱であれば機能を満たす、ということです。

厳密にはシャッタースピードの限界値や、高速シャッターがきれいに開ききっているかで、記録できるイメージに差はあるのですが、よほど写真に精通していない限り気が付かないような差に過ぎません。

先ほど述べた「デジタルカメラ全盛の現代にあっては」というのは、デジタルカメラの場合、フィルムに相当するセンサーがカメラと一体化しているので、カメラ本体が画質を左右するという意味において、カメラはただの箱ではありえないことに由来する言及です。

ここでいう「画質」は優れているとか劣っているとかいう意味ではありません。

写真とはそもそも、三次元世界を二次元に写しとる時点で虚構です。どんなに再現度が高く見えても現実世界とは異なるのです。

いくら「それっぽさ」を追求したところで原理上限界があります。二次元は三次元世界の深度を持たないからです。ならば、再現度の高く見える画質、現実そっくりの画質を追求することにはほとんど意味がありません。どこまでいっても虚構は虚構です。

ここでいう「画質」とは「再現の方向性、性質」程度の意味になります。一般的な「解像度が高いから画質が良い」というような意味合いはまったくありません。

さて、フィルムカメラにおいて「カメラはただの箱」なのでしょうか?

答えはNOです。

撮影者にとってカメラは拡張された身体です。

人間の行動は身体に左右されます。

僕らは自分で思うほど能動的な生き物ではありません。

カレーの匂いを嗅いだらカレーを食べたくなったり、スタバの看板を見れば新作でも飲もうと思いついたりします。

前者は嗅覚から、後者は視覚からの刺激によって僕らの行動が規定されています。いずれも身体の介在があることに注意してください。

写真撮影も同じです。シャッターボタンを押したくなる何かが僕らに作用した時、僕らはカメラを構えます。

「すべては自分が能動的に決めて撮影に至るのだ」と言うひともいるでしょう。

その「能動」がどこから来るのかを考えてみてください。

お腹が空いていなければカレーの匂いを嗅いでもカレーを食べようとは思いつきません。

一眼レフカメラだけを持つひとはアリの巣の中を撮影しようとは思いません。細長く、頭にライトの付いたカメラでもなければ撮影できないからです。

想定できるカメラの限界がすでに被写体を限定しています。

僕らは無意識にカメラという身体の限界を考慮しながら撮影するものを選んでいるのです。

まとめます。

人間は一般に思われているほど能動的には生きていません。

身体は人間の行動を規定します。

拡張された身体であるカメラは撮影者の意図に働きかけます。

よって、どんなカメラを使用するかはどんな写真を撮影するかに影響します。

このことから、本体が画質にほとんど関係しないフィルムカメラであっても、「カメラはただの箱」を超えた存在であることが分かります。

カメラは撮影意図を左右する要素なのです。

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