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“揚げ出し豆腐“

 「私は揚げ出し豆腐が好きです。」

元新体操選手がこんなこと言って、すみません。だって、新体操選手は体型維持のために摂生しないといけないから。こんな油まみれのモノを好きなんて言って。食欲を誘うようなこと言って。(元、とはいえ)新体操選手として意識が低いということは自覚していますー。

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 私が新体操を現役でやっていた頃、ご飯をおいしいと感じたことはほとんどなかった。現役時代の私の事を知っている方が見ていたら、「嘘つけ!」と思うかもしれない。当時の私は、新体操選手の中ではかなりぽっちゃりしている方で、講師として練習に来て頂いた先生方には、よく「食べることが好きそうね」と言われていた。(皮肉はこもっていなかったと思いたい。)

 新体操をやっていた頃に美味しいと感じた数少ないものの一つが、揚げ出し豆腐。これは、中学校の修学旅行で、南九州のある農家のお宅にファームステイさせてもらった時に、お宅の奥さんが夕食に出してくださった手作り揚げ出し豆腐だ。当時の私にとって、正直、修学旅行は辛く苦しい新体操生活から逃れられる幸せな時間だった。新体操の事を忘れて食べるご飯は至福だった。

 ただ、全く新体操の事を考えていなかったわけではない。やはり、心の隅っこで「お前はデブだ」「ご飯を美味しく食べている場合じゃない」「ご飯を満足いくまで美味しく食べるなんて許されない行為だ」と、新体操の妖精たちが囁いてきた。新体操にとっては可愛らしい妖精でも、私にとっては真っ黒な悪魔でしかなかった。

 高校で新体操を引退し、大学に入って初めて、自分の食に関する認識がおかしいことに気がついた。適切な食事の量がよく分からない。みんなが大学の食堂のメニューを美味しくないという意味が分からない。私には美味しく感じるんだ、恥ずかしい。挙句には「蕎麦の食べ方がおかしい」と笑われる始末。私は食べ方まで大学デビューする必要があるのか。ほぼ強制的な体型維持・減量から解放されて、解禁となったはずの食事を、暫くは本当の意味で楽しめることができなかった。

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 これは大変お恥ずかしながら、私自身の実体験です。体型維持・減量のために、ただ「食べる」という行為を自分の中で抑制することによって、「食べる」という概念そのものが私の中では悪になりました。結果、食べることに関わる諸要素、例えば食事の量や味・マナーなどが、体得されないままになってしまいました。

舌バカは芸術作品を味わえるのか

「舌バカ」という言葉があります。これは、食べ物の味の善し悪しが分からない人の事を、少し揶揄する意味合いも込めて使う言葉です。五感の一つでもある「味覚」ですが、元来、人間がその食べ物が毒ではないかを判断するのに使っていた感覚で、生死に関わる感覚だったと言います。現在は製造段階で毒が盛り込まれないようにすることもあり、私たちの手元に届く食材に対して、生死の判断をすることはありません。安心してご飯が食べられる一方で、生死の判断が必要なくなったことから、舌の感覚がバカになる現代人も多いそうです。

 正直、舌バカで困ることはほとんどありません。少し味覚が鋭い人に、少しだけバカにされる程度でしょう。しかし、モノの味が分かるということは、ご飯の味が分かるだけではない、もっと大きな広がりを持つような気がします。そしてそれは、新体操にもつながるような気がします。

 「味が分かる」「味わう」という言葉は、そのままの意味で使われるだけでなく、比喩表現の一つとして使われることも多いです。一番分かりやすい例でいくと、「芸術作品を味わう」なんかがそうですね。モノの良さが分かる事を、ご飯の味が分かる事に例えて使う表現です。新体操の世界でも、ある選手の演技に対して「味があるね」と言ったりしたことはないでしょうか。これは、ご飯に味がついていることに例え、「色がある」「深みがある」みたいな意味で使われるでしょう。

 良さ(善さ、と言った方が適切でしょうか?)の判断は、できるだけ多くの感覚を駆使した方が分かると思います。とある美術作品を視覚だけを頼りに鑑賞したり、またとある音楽を耳だけを頼りに鑑賞したりするよりも、あたり一面に広がる草原を見て・聞いて・触って・嗅ぐ方が良さが分かるということからもいえるでしょう。

 新体操には「表現」が伴うということは再三言っておりますが、その表現の入り口として、何かモノを受け取る・感じ取る時に感覚を研ぎすませることが求められます。ここでは「表現したい曲を食べる」なんてことは無理ですが…感覚は結局どれも自分の体です。何か一つの感覚をクローズするなんて器用なことはそうそうできません。全ての感覚のアンテナを張ることが、モノを感じ取ることにつながります。(第六感なんてものもありましたね。)とすると、舌バカだった場合、味覚という感覚がほとんどクローズされてしまっている状態ですが、影響が少ないとはいえ、感じ取り方に差が出てきてしまう可能性も考えられそうです。「表現したいモノを食べる」くらいの勢いがあってもいいかもしれませんね。

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美味しいは満足につながる

 私は今、おかげさまで食事のマナーも大分習得し、食事の善し悪しも分かるようになってきました。美味しいものが食べられるようになって「満足」する嬉しさを噛み締めています。最近は甘いお菓子も脂っこい揚げ物もあまり食べなくなって、引退後のピーク時から7キロほど痩せました。

 大学で「食育」に関する授業を取ったのですが、授業中に教授が見せてくれたスライドには、給食を美味しそうに、笑顔で食べる子どもたちの写真がありました。思えば、食事は家族と・友達と楽しく食べるものだと小学校の時に教わった(というか感じた)気がします。きっと、この家族団欒で今日あったことについて話をしながら「美味しい?」なんて言いながら食べる食事が当たり前なんだと思います。

 体型維持や減量によって、食事に制限をかけなければいけないスポーツ選手は少なくないと思います。だからといって、食事という概念・行為自体に制限をかける必要はないと思います。むしろ、食事は楽しく美味しい方が、減量もうまくと思っています。もちろん、あまーい高カロリーのパフェは我慢する必要がありそうですが、(それでも時々ならいいのではないでしょうか)最近では、美味しくてヘルシーな料理メニューがインターネット上にわんさか転がっています。それをうまく活用できれば、あまーい高カロリーパフェを我慢する以外の我慢は必要なくなるのです。

まとめ 

 何か物事を極めようとする時に、苦しさは付き物です。ですが、無駄な苦しさはいりません。無駄に苦しむことは、結果として私のような「引退後に常識すら残らない」感覚に陥ることになりかねません。苦しさをとことん苦しむのではなく、逆転思考で良い面を考えることも必要でしょう。今回は「食事制限」について、食事を真っ黒な悪魔と見る視点と、真っ白い妖精と見る視点を紹介しました。私のような選手が少しでも減りますように。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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@rolling0_0panna

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