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瀬戸内寂聴

女流作家の瀬戸内晴美、若い時は面食いできれいな女性に一目ぼれした私の好みからも彼女が何故あのように次々と恋愛ができるのか不思議な存在だった。

周囲の男とこれだけ関係を繰り返す彼女はどんな魅力があったのだろうかという不思議さと懺悔の末であろうか突然の出家に驚いた。

私の終生の趣味は日本史の探求である。ですからそのフィールドの地ともいうべき京都には、ずいぶん通った。京大で宗教学を教えた久松先生が設立したFAS協会の末席も汚したが、その協会も京都であったから静岡から通ったのだ。

その京都の嵯峨野で瀬戸内晴美が寂庵なる庵を作り終生の住処と定め創作活動と宗教生活を両立させていたという情報はうらやましかった。

私も、状況がゆるせば、京都に住み、好きな研究に打ち込んでみたかったのが終生の願いだったからだ。
京都に行った時は好きな嵯峨野をよく散策した。
寂庵の玄関戸の隙間から中をのぞいたことも何回かあったが、一度も彼女に会えることはなかった。

2021年11月に99年の生涯を閉じるまで、現役作家であり続けた瀬戸内寂聴(継承略)。

結婚、出産、不倫、出奔、文壇デビュー、得度…。昨年11月9日、99歳で亡くなった。
彼女の人生は、自らの作品世界と重なるような波乱に満ちていた。

そうした人生を背景に語られる法話は、迷える人々の心に寄り添い、すくい続けたのかどうかは私はその方面にはあまり関心がないので詳しくはない。

先の大戦中に結婚して北京に渡り、母にとなり、引き揚げ後に夫の教え子と恋に落ちる。
幼い娘を置いて出奔した経緯はその作品で詳細が語られている。しかし、恋は実らず、自活の道を幼い頃からの夢だった小説の世界に求めた。

昭和32年の「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞を受賞したが、後の「花芯」の官能描写をめぐり、男性中心の文壇から批判を浴びた。

私も今思えば村上春樹に似た体のいいポルノ小説かと記憶に残る。
奔放な生き方ゆえに誤解も多かった明治生まれの流行作家、田村俊子の評伝小説により文壇での復活を遂げた。

以後、才気ゆえに稀有(けう)な人生を歩んだ近代日本の女性で無政府主義者・大杉栄とともに虐殺された雑誌「青鞜」最後の編集者だった伊藤野枝の恋と波乱の人生をつづった「美は乱調にあり」、続編「諧調は偽りなり」は代表作となった。

社会活動家の平塚らいてうを主人公とした「青鞜」、小説家岡本かの子を扱った「かの子撩乱」、芸妓から尼僧になった高岡智照尼の「女徳」など、因習にとらわれず恋や思想、芸術に命を燃やす女性たちに、自身の生き方を重ねていったように作品を生み出していく。

37年発表の自伝的小説「夏の終り」は、妻子ある作家と年下男性との三角関係に悩む主人公を描いた話題作で映画化もされ作品で今も読まれている。

そして、51歳での得度。大きな転機になった。破天荒ともいえるその生き方は逆に世の女性の裏返しの羨望でもあったのだろうか、著書が飛ぶように売れる流行作家としての地位は高まった。

然し、彼女の帰依した仏教は、栄華の裏に人生の虚しさの自覚を問う宗教だ。だから彼女は一度得度の瞬間死んで見せたのだろう。「生きながら死ぬ」ことの意味を悟り、実践したのだろう。

仏教では戒律を守らない僧を破戒僧というが、
男僧ではない尼僧であっても剃髪後も酒を飲み、肉を食すことを公言した。

その様な世俗的な宗教生活がいいのか悪いのかは私には問えないが、禁欲的ではないその親しみやすさで民衆の心をつかんだのは確かであろう。

一般生活者は、子供や伴侶を亡くす別離で悩める人が多い。私のように「自己とは何か」といった訳の分からない悩みではない。その様な民衆が彼女の法話に集った。

己を忘れて他を利するという天台宗の開祖・最澄の「忘己利他(もうこりた)」の精神で民衆を癒やし続けたという。

70代に入ると、日本人の精神とも呼ぶべき源氏物語の現代語訳に挑んだ。そんな縁でこれまた源氏を生涯愛したドナルド・キーンとも交流を重ねた。

準備に5年、訳に5年というあしかけ10年の月日をかけ、「ですます調」の平易な言葉を駆使した「瀬戸内源氏」と称される大作は完成した。

「生きることは愛すること」とよく口にした。生と死の両面を生ききった人生と言えるのだろう。


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