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宗教哲学における、不合理と合理

「生と死」、一見相反するように思える命題であるが、実際には密接に関連しています。
人間の理性や論理では説明できないものを不合理、それに対して人間の理性や論理で説明できるものを合理とよばれる。

仏教哲学では、不合理な存在や現象を通じて、人々が自己の限界を認識し、新たな視点や洞察を得ることができると考えられています。また、合理な存在や現象についても、その背後にある真実や本質を探求することも重要視されます。

仏教哲学における不合理と合理の関係は、人間の知識や認識の限界を超えた領域に目を向けることに注力します。このような視点から、人々は自己や世界の本質的な問いに向き合い、深い洞察や悟りを得ることができるとされています。
死というものは定義からすれば、まことに不合理である。一生苦楽を共にした家族との別れ、その関係性が全て無に帰するので、真に不合理といわざるを得ない。

いかなる合理的説明も拒絶するのが死の世界であるから、仏教では死とは、岸辺に打ち上げられた波が深くて広くて果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくことと説明する。
 涅槃である死は寂静であり、それは意味付けを必要としない世界である。
波立つ煩悩と、静かな海底即ち本来の水という悟りは、根本は同じであり対極するものの一体性として説明する。この弁でいえば死と生は同じものの違う表現という認識なのだ。

どんな人も必ず死にます。死ななかった人は一人もいないので、やがて自分も死んでいかなければなりません。死んだらどうなるのでしょうか、誰も、見てくることはできないので、死んだらどうなるのか分かりません。

しかし、よく分からないから不安になります。
外国に行くのさえ、よく調べてからでないと不安になりますから、事前に色々と調べたり、準備したりしますが、ましてや、まったく分からないのが「死」です。

生きている時に手に入れたものも、みんな置いて死んでいきますし、死んだら帰ってこれません。取り返しはつかないのです。
ですから、死に対してどう考えるかという「死生観」がその人になければ、死が近づくにつれて「死んだらどうなるのか」という不安が高まるばかりです。

如何に死ぬべきかを、いかに生きるべきかに替えるのが死生観であり、合理的な説明ができれば、不合理な死こそ合理なるものなのなのです。仏教というものはこのように不合理にして合理を説くものです。

違う観点から見てみよう。
フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、死を「三人称の死」「二人称の死」「一人称の死」の3つに分類しました。見知らぬ人の死は「三人称の死」、「二人称の死」は、非常に身近な人の死です。家族の死はここに分類されます。
そして「一人称の死」は自分自身の死についてです。
 人類はこの疑問に対し宗教として答えてきました。

有史以来、宗教は、死後の永遠の存続を約束しています。人類は宗教を信じ、死によって完全に無に化すという思考を否定してきました。
しかし、私の生まれ育った日本は仏教的社会と信じられてきたが、現代はある意味無宗教である。

形式化した行事はレジャーのように宗教としての片りんを残しつつ定着していますが、イスラム教徒やキリスト教のように原理に厳格な宗教として厚い信仰心を持っているかというと、疑問が残ります。

 実際、日本人の多くは仏式の葬儀を行いますが、仏教の教えに沿った死生観を全員が持っているわけではありません。
お葬式で参列者が故人に対し「天国でも平和で幸福を」などと声を掛けるケースが多いものの天国という概念は仏教とは無縁で、キリスト教の考えです。
それほど、日本人の「あの世」に対する概念は、宗教と切り離されたものになっています。

 しかし日本人は何も信じていないわけでもありません。日本人は現代科学に強い信頼をおいています。
人間は、生活を豊かにするために、科学を積極的に取り入れてきました。現代科学は、人間の記憶や意思、感情は脳のメカニズムによるものだと明らかにしています。
また、死によって脳の崩壊が起こり、神経連絡回路が破壊します。それらが死と定義されています。
その結果、何よりも人間存在を担保する意識はなくなり、日本人は「死」即ち「無」という考え方に陥いるのです。
この無という言葉は仏教の無という本来の意味を離れこれまた形骸化をしているのです。

死に対する恐怖や不安から来る苦痛を和らげることを「霊的サポート」と言うのだそうです。
海外の病院では「チャプレン」と呼ばれる宗教家や教会の牧師が霊的サポートを行っており、学校にもチャプレンが雇用されています。

それほど海外では緩和ケアが重要視されており、常勤のチャプレンが居なければ、総合病院の設置基準を満たさない程です。
 しかし、日本の病院にはチャプレンなどの設置基準がありません。そのため、多くの患者は宗教的な関与がないまま、人間の死に対する霊的苦痛「スピリチュアルペイン」を抱えています。

 日本人は、いつ死ぬのか分かっているのが嫌で、寝たきりのような意味のない生活ではなく、老衰などのぽっくり死を好むのでしょう。
西洋社会、殊にアメリカでは自分の死期が分かっているほうがいいと言います。あらかじめ自分の余命が分かっていれば、身の回りを整理するなど、死に向かう準備ができるからです。

これは、不合理ではあるが信仰という超越で合理化した死です。また、アメリカでは緩和ケアも充実していて、モルヒネを使う痛みを緩和する鎮痛薬が、日本の約20倍使われています。
日本の医療界は病気を治すことが本旨で緩和ケアに対する考えが定着していないのです。

 日本では、団塊の世代が高齢期を迎え「大量死の時代」に差し掛かります。今は1年に100万人余りが日本で亡くなっていますが、それ以上の人数が毎年亡くなるような時代が訪れます。死への関与が希薄な日本人にこそ、死に関する学問が必要であると秋田大学の新山教授は話します。

 
 「多くの日本人は、自分が余命幾ばくも無い状況に陥ったときに、現代科学を放棄して宗教を信じることに抵抗を感じてしまいます。そのように宗教を持たない人に対しても、死とはどのようなものであるかという回答をいまこそ日本社会は用意しなければならないと新山教授は言うのです。
超越者、絶対者、
神、仏のいない日本人の死について真正面から考える時代がやってきたのでしょう。

私がここに存在しているのは、父母、祖父母をはじめ膨大な時間や世代の継承があってのことである。その先には生命を誕生させた神秘な世界があったとしか言いようがない。

そのような世界があり、私がおり、 あなたがいることは超越的な力を感じさせることとして、「畏敬の念」を生 じさせる。
私の力を超えた次元に対する畏れと慄き、敬いの念である。

それは、西行法師が伊勢神宮を参拝したときに読んだ歌、「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼれる」という心情である。この場合、 伊勢神宮はひとつの超越的なものへの象徴と捉えることができる。
まず人は生命への畏敬を持たねばならない。それは、神のいない世界に生きる私たちの持たねばならない第一の心情なのだ。そこからすべてが始まるのだ。

生理的死によって、脳の崩壊がはじまり、現在の記憶は失われます。そのような考え方には、自然科学的な合理性があります。
然し、自分がここにいたという「特異点としての私」は死後も残存するという考えは、仏教を始め、哲学の世界では、いわれます。

 「自分が今ここにいるからこそすべての存在があるといえます。今があるから、膨大な過去があり、永遠の未来があります。自分という存在は、あらゆるものの関係性からなりっているからです。

今地球上では約80億人の人間が生活しています。
自分が特異点として、かけがえのない存在であるから80億人の存在もあるのです。
生命の誕生もたった一つの命として誕生しその多様性が永遠の命として存在してきたのです。
個々の死が永遠の無としたら、命の本質は何かと問われるのです。80億人も無に帰すことになります。
自分が無的存在であれば無からは有は生まれないのです。二度とこの世界に現れないまま永遠に時間が流れていくのみです。しかし、特異点としての自分は、時間の流れとは独立した存在なのです。

ハイデッガーは、「存在とは時間だ」といいます。
存在(有)とは、時間であり、時間とは自分自身である。

今は自己と他者の共通の場所であり、「いま」が未来と過去を創り出し、時間の流れの源となっているわけです。
もの・ことの前提となるものは、主語/述語、ノエマ/ノエシスなどの対極概念によって導き出されたものです。時間は「もの」ではないが、人間の意識と切り離して客観的に観察できるような客体ではない「こと」がらなのだ。

ここにある、茶碗の実在性は、それがまさに「そこにあり」という、ことがらを私が認識して存在します。ですが、あるということが、認識上のことなのか、認識とは無縁の独立的なことなのかは、物が先か、心が先かの唯心論対唯物論の論争ともなっていた。
これは、「もの、こと」の本質が矛盾的存在であるからどちらも正しいといえるのだ。
要は、有限である現われは、無限な現われの連鎖、あらゆる可能な観点の無限性において捉えられなくてはならないのです。
「現れる存在」は「現われれない存在」があっての存在なのだ。これにまつわる問題が、存在と無に関する学び、死生観の出立点となる。

西洋の実在論は、存在と非存在、主観と客観を統一するヘーゲル的な弁証法で考えるが、東洋のそれは、存在と非存在、主体と客体との対立が根源的な存在の在りかたとして、深層に於いて実在との合一を乗り越えようとします。存在は非存在であるがゆえに存在であると超越的な自我の否定により、実在を理解しようとしたのです。存在の無根拠性を即非とする大乗仏教では「有も無」も「存在も非存在」も同時に成立するのです。

無に帰するということを今風に考えてきましたが、私ごときものが考えても結論が出る問題ではありません。

何もないことをあらわす「無」。それは「からっぽの空間」つまり真空を想像するかもしれません。さらに、空間すらも存在しないような「究極の無」を思いえがきます。
 現代物理学によると、真空はただの「からっぽの空間」などではありません。空間から物質をすべて取り除いても、そこには奇妙なものたちが満ちあふれているというのです。また、真空それ自体が、劇的にその状態を変化させるといいます。現代科学でも、無は全くの停止ではなく動きを持った運動体と見なしています。

私たちは、死ねばその要素が遍く宇宙空間に四散します。またエネルギーと質量は同価と言います。前向きな死を迎えればエネルギーである意識は何時の日か新たな肉体を得て再生するかもしれません。
現在のAIの進歩が、スプリチュアリテイ(霊的、精神性)の特異点に到達したら、私たちの生物的な身体や、脳の抱える限界を超えることが可能となる。その時人間は運命を超える力を手にすることが可能となるのかもしれない。それが更なる生死の解決になるのか、混迷になるのかは知らない。

現代科学(AI)が人間の知性を超えた時、進化は指数関数的に神に近づくであろう。その指数関数的進化の始まりを特異点という。




 


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