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岡村淳監督『ブラジルのハラボジ』を観る

記録映像作家、岡村淳監督による『ブラジルのハラボジ』を拝見する機会に恵まれる。

日本を経由して、ブラジルに移民した韓国出身の男性への、岡村監督によるインタビューを記録した、1時間ほどの作品だ。

インタビューに答えるのは、張昇浩さん。1907年に韓国に生まれ(その3年後の1910年には韓国併合で大日本帝国統治下となる)、16歳で日本へ。熱心(父親に反対されたが信仰を諦めなかったという)なクリスチャンだった張青年は、通っていた教会のはからいもあり、わずか3年で日本を後にし、ブラジルに渡る。そして、ブラジルで結婚した日本人女性の姓(三田さんという)を名乗り、懸命に働き(農作物を運ぶ仕事をされた)ながら、年を重ねる―。

岡村監督によるインタビュー時には、89歳。ハラボジ(韓国語でおじいさん)と呼ばれて、日本人と韓国人コミュニティーの中で、尊敬され親しまれる存在だったそう。

はきはき、とは言い難い、聞き取りにくい声で話をされるハラボジが、二回、瞬間的にどうしようもなく顔を歪めて、嗚咽する場面がある。ひとつは、韓国にいた時に、日本人にされた虐め、差別について話そうとした瞬間。もうひとつは、亡くなった母親の思い出を話そうとした瞬間。とても優しくしてくれた、と絞り出すように話すハラボジ。貧しい家に生まれたハラボジのお母さんは、自分が食べなくても、ハラボジに食べさせようとしてくれたそうだ。

達観したように話すハラボジ(89歳だなあと思ってこちらは見、聞いている)が、突然、感情を露わにする。瞬間的に、ハラボジの内面は、その思い出の中の時間(少年の時)に入っているのが、見てとれる。人の心に深く刻まれた記憶は、年月で褪せることがなく、いつまでも、同じ強度で、人の感情を揺さぶるということ。張さんが幼年期から受けた差別や虐めが大変に酷いもので、受けた傷は今も傷んでいること。亡くなってから時間の経っているだろう母親への複雑な想い。観るものは皆、稲妻に打たれた様に、瞬間的に、ハラボジの内面で起こる感情の強い揺れに共振し、それらのことを理解するだろう、と思う。

岡村監督の撮るドキュメンタリーは、答えや提案や誘導など予め用意などしていないから、観るものは、自分の心と頭を使って、一生懸命、というか能動的に観ないといけない、と思う。なかなかそういう風に、撮り、編集できる人はいないのではないだろうか。

監督の、ポルトガル語と、韓国語と、日本語のどれが一番得意ですか?という質問に、ハラボジは、「日本語」と答え、そして、付け足す―「でも、いつも、自分は朝鮮人と思っていた」と。

言葉とは、自分だ(ちょうど今読んでいる、長田弘著『読書からはじまる』にそう書いてある)。
それなのに、自分がいちばん使う言葉の枠組みに、自分は属さない、外のものなのだ、と常に―文字通り常にだと思う―感じながら、感じさせられながら、生きていく人生の過酷さを思う。

そんな過酷な人生を送っていたハラボジにとって、自分を丸ごと受け入れ、いつも世界の中心においてくれたであろうお母さんという存在は、いかに特別なそれであったことだろうか。

母語を与えてくれたお母さん。母語である韓国語は忘れてしまったそうだ。遠くまで来たその道のりが、平たんでなければない程、記憶の中のぬくもりは、かけがえがないものであることだろう。そのことの、言いしれない寂しさや懐かしさやごめんなさいという気持ちやありがとうという気持ち― 過酷だったろうし同時に豊かだったろう、ハラボジの人生に想いを馳せる。

もうひとつ書きたいこと。監督が日本の今後について質問する。ハラボジは「滅びると思う」と答え、「こんなに偉そうにしていて、うまくいくわけがない」と。実際にその通りになりかけているのに、いまだに偉そうにしている自分の国が情けない。

(自分を虐めた人達のことを)恨んではいないと言っていたハラボジ。死後の世界があるとすれば、今頃、お母様とも一緒に、何の心配も、差別も、よそ者感もない、幸せなときを過ごされているだろう、そう思う。

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