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rokuyouが目指す社会と、信じ続ける学校教育の可能性

なぜ、rokuyouが学校教育に軸足を置くのか。そこには、代表・下向の強い思いがあります。そこで、今回は改めてrokuyouが学校と協働し、取り組みを進めている背景をお伝えしていきます。

目指すのは共生共存の社会

人は元来あたたかいつながりの中で、共生共存しながら生きていきたいという願いを持っているものだと思います。例えば、生態系に目を向けると、そこには不要なものはなく、木々も動物も虫も微生物もあらゆる生命が必要な存在としてそこにあり、循環を生み出しています。本来、私たち人間もその中の一員であり、同じ価値観を持っているはずなのです。

では、実際の人間の社会に目を向けてみましょう。現代社会は、多くの人が競争や優劣にさらされ、個を尊重し共存する価値観とはかけ離れて暮らしています。そして、日本のほぼすべての人が経験をするフェーズである学校教育においても、目指したい共生共存の社会から離れていく教育を行なわれていると感じます。この状況が積み重なれば、どんどん歪みは大きくなっていくでしょう。

少し大きな話になりますが、人間社会における共生共存とは”平和”を指していると私は考えています。個々の存在がありのままを認められ尊重し合える社会であれば、暴力により誰かの幸せや生きる喜びを奪ってまで争うことがなくなります。そして、誰かの利益や誰かの意図のために生きる喜びを奪われることもなくなっていく。私はそんな社会を目指したいのです。

平和への思いにたどり着くまで

私の両親は共働きで、幼少期は祖母と長い時間を過ごしました。祖母は大阪の戦禍を生き抜いた人で、空襲で多くの大切な人を亡くしたり、目の前で亡くなっていく人を数えきれないほど目の当たりにしたりしたそうです。私はその話を聞いては、人の日常や命までを簡単に奪う戦争に対して、「人間はそこまで愚かな存在になれるんだ」と苦しくなりました。小学校へ入学する頃になると、「愚かな人間としては生きていきたくない」と、その思いは一層強くなっていきました。

一方で、次第に絶望とは異なる感情も湧くようになります。「なぜ人はそこまで愚かになりえるのか」という疑問が生じ始めたのです。つまり、人への嫌悪ではなく興味に変わっていったのでした。絶望の中にありながらもどこかで、「人を信じたい」という希望を持っていたのでしょうね。それは、おそらく、信頼できる家族や周囲の人たちに恵まれていたからです。そして、小学生の私は、人の愚かさへの疑問を紐解きたいと、戦争を題材としたドキュメンタリーや映画などを貪り観る日々を過ごしました。

世界が戦争にひた走っていった過去を調べる中で、「人間とはなんと脆いものだろうか」という感覚を抱くようになりました。良い方向にも、悪い方向にも一気に進む。瞬間的に一人の独裁者を信奉し、自分の命をなげうつほどの行動をとってしまう。その脆さを認識すると同時に、大きな恐怖がこみあげました。誰か一人が悪い方向に進むように設計さえすれば、一気に平穏な暮らしは崩れると知ったからです。

しかし反対に、この人間の脆さは希望にもなりうると考えるようになります。良い方向に社会が進むように設計していくことができれば、悪化を食い止めることができるからです。そして、そのゲームチェンジの鍵を握っているのが学校教育だと私は考えているのです。

人は生まれながらにして完全で美しい存在である

繰り返しになりますが、人は生まれながらに共生共存しながら生きていきたいという思いを持っています。しかし、教育やメディア、身近な人からの影響によって異なる方向に向かう危険性を持っているのです。

おそらく歴史上の独裁者と呼ばれる人も、このように教育や周囲からの影響によって道を踏み外していったと思うのです。過剰な権力への執着は、承認欲求のあらわれであるように感じます。自身の欠けている部分に目がいき、あるいは他者と比較する中で、それを埋めるかのように承認を求めていく……。そして、それが権力を持ちうる能力や地位の人であれば、独裁者が誕生します。承認欲求には限りがありません。そのため、どんなに権力を得ようとも独裁はやむことはなく、社会を巻き込み悲惨な末路を迎えます。

これを食い止めるに必要なことは、人は生まれながらにして完全で美しい存在だということに気づくことなのではないでしょうか。たとえ何かが欠けているように感じたとしても、それで完全体なのです。もしかしたら、これは愛や受容といった言葉で表現できる概念なのかもしれません。

争いの煽動者、そしてその煽動に応じて他者を貶める戦いに高揚する人たちを生まないようにするために必要なことは、すべての人が満たされている状態をつくっていくことではないでしょうか。

現代社会を見ていると、多くの人が自分に欠けているものを埋めようと躍起になり、他者との比較の中で生きているように感じます。また、欠けていることが許容されにくい社会に進んでいっているとも思います。そして、共生共存の価値に気づいている人たちも、多くが、他者と競争し優劣をつけられることや争いがあることを「仕方がないことだ」と受け止めています。「理想と現実はちがう」「世の中はこんなものだよね」と諦めてしまっているのです。しかし、この諦めは結局のところ、平和を崩すことを助長させているように感じます。まずは、そのことに気づくことが重要ではないでしょうか。

可能性を信じ、教育を転換していく

これからは「ethics」がより重要な社会となっていくと考えています。ethicsとは日本語で「倫理観」などと訳される概念です。AIによって情報は簡単に引き出され編集されるようになりました。これから、その動きは加速度を増していくでしょう。ethicsがなければ、出てきた情報は歪められた目的で活用されてしまいます。便利なツールとは、大きく社会を良くする可能性も持っていれば、悪くする危険性もはらんでいるものです。重要なことは、活用する私たちの心の内に軸を持っておくことです。

平和に向かっていくためには、子どもたちが長い時間を過ごす”学校”という地点を重視していかなければならないと考えています。学校が担う役割や可能性の大きさは、計り知れないものです。私は、そこへすごく期待をしていますし、同時にすごく強い課題感も持っています。

そうした意味で、現在、教育現場で重視されている探究学習やプロジェクト型の学習(PBL)には転換の契機となる可能性を感じています。子どもたちが自分の興味関心の種を育て、目標を立てて、ベクトルを示し、進めていく。最終的には自分自身でどれほど達成できたかも評価する。さらに、自身の得意を活かしてチームで学びを深めていくことができれば、共生共存に触れることにもつながるでしょう。

先生方は、こういった教育を実現していくために、個に対してはコーチ、集団に対してはファシリテータになっていくのではないでしょうか。そして、何よりも先生方がこうした教育の実現に向けて、生き生きと活躍する存在になっていくと感じています。

学校はすごく可能性を持っていますし、先生方もものすごく可能性がある存在です。私たちは子どもたちの未来のためにその可能性を絶対に諦めません。rokuyouは諦めない仲間たちで作る組織です。

この可能性を信じ続けることには勇気が必要です。そして、全国の学校にまで思いや取り組みを届かせていくには、私たちの力はまだまだ小さなものです。だからこそ、たくさんの同じ思いを持つ方々とつながり合いながらゲームチェンジを起こしていきたいと考えています。”人は生まれながらにして完全で美しい存在である”という土台に支えられ、「学ぶことが楽しい」「生きていることが楽しい」、そんなふうに子どもたちが人生を味わえるような学びを、そして学校を一緒に作っていきましょう


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