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【3】苦しみ

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「…ちょっと待ってください。1回、頭を整理させてください」

この男、いきなり質問責めをして自分のペースを作ろうとしていないか。幸福は苦しみが無い状態じゃなくて、価値に向かう生き様だって?価値って、そもそも何だ。

武:苦しみの無い状態が幸福だと先生は思わないのですか。人なら誰だって、苦しみを避けようとするじゃないですか。先生だって、病気になれば病院に行くでしょう?

松:苦しみを避けようとするのは生物として当然の行動ですね。私も健康でいたいので、病気になれば病院に行くなり薬を飲むなりして治そうとしますよ。ただし、心の苦しみは別です。病気を薬や手術で治療するかのように、心の苦しみをきれいさっぱり取り除くことは出来ないのです。それどころか、心の苦しみをゼロにできるという前提が、幸福を阻んでいるのです。

武:…驚きましたね。まるで、ご自身の仕事を否定されているかのようだ。心の苦しみが取り除けないのであれば、あなたの仕事は何なのですか。

松:私ができることは、苦しみがあっても自身の価値に沿って生きることを手伝うことだけです。苦しみを肩代わりしたり、引っ張り出して消滅させることはできません。ただし、苦しみは取り除けなくとも、居場所を作ってやったり、上手に引き連れてやったりしながら、いきいきと人生を歩むことは可能です。

武:…どうも腑に落ちないのです、苦しみが消えないというのが。だって、世の中の自己啓発本はそれが消せると謳っているじゃないですか!"悩みが消える習慣”とか、”メンタル強化法”とか。どれもデタラメだったんですか。

松:極端なたとえ話をして良いですか?

武:さっきの覚せい剤の例えで慣れましたよ。

松:今から武さんの腕を1本引きちぎったら、苦しまれますか?物理的な痛みではなく、精神的な苦しみです。

武:当たり前でしょう。というかブチギレますよ。

松:その苦しみや怒りは、”異常”でしょうか?

武:どう考えても、異常ではなく普通の反応でしょう。

松:では腕を引きちぎられた武さんの苦しみを、私のカウンセリングスキルを持って、瞬時に癒すことは出来るでしょうか?

武:出来るわけがない!

松:そう、出来る訳がない。なぜなら苦しみは、異常では無いから。ネガティブな感情は、元を辿れば全て正常な反応です。人間は進化の過程で、"苦しむ"という適応力を獲得しました。何も恐れず、何も苦しまなければ、私たち人類はここまで進化してこなかったのですから。
腕をもがれた武さんは悲嘆にくれますが、やがてその苦しみを受入れ、引き連れながらも幸福に生きることができるはずです。ところがこの正常の反応である苦しみを受け止めずに、逃げたり取り除こうとしたりすることで、本来の正常な苦しみを不必要に増幅させてしまう。それこそが精神的な病の元凶と考えます。

男は一息置いて、続けた。

松:腕の例は極端ですが、人間は生きていれば必ず何かを失い、苦悩する。その時、苦しみから目をそらさず、優しく受け止めながらも目指すべき道を進むことこそ重要なのです。快い感情と同時に苦しみも抱えている状態こそ、人間にとっては正常であり、健康な状態です。

正直なところ、分かったような分からないような感覚だ。だが、この男の話には聞くだけの価値が有る。そう思った。

武:…続けてもらえますか。先ほど言っていた”価値”というのが何なのかを教えてください。

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