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さようなら

「ねぇー!!なんでやめちゃうの?」

夕方、夜勤要員として出勤すると、廊下の向こう側からシンちゃんが勢いよく走ってきた。

「ごめんねぇ。最後の日に言おうと思ってたんだけど、知っちゃったかぁ。」

3月をもって、働いていた病棟を去ることが正式に決まったのは、年が明けてからだった。

「なんで?なんでやめちゃうの?
私まだ退院しないのに。
先にいなくならないでよ!!泣くよ!?」

今にも泣きそうな顔で、すでに大きな瞳をうるませて見つめてくるもんだから、私も言葉につまる。

「今晩シンちゃんが眠る前にお部屋に行くね。
その時に、ちゃんとお話しするね。」



***


「ねぇ?」

次はシンちゃんのお部屋に行かなきゃなぁと思いながら、ハンさんの就寝準備を整えて、お部屋を出ようとすると、呼び止められた。

「あなたの顔を見ると、安心するの。
ほんのたまにでいいから、また顔を見せに来てくれる?」

そんな、看護師冥利に尽きるようなことを。

照れ隠しで笑いながら、「たまになんて言わずに、いつでも来ますよ。すぐそばにいるから、安心してお休みくださいね。」そう言って部屋を出た。


『あなたの顔を見ると、安心する』

この一年、ありがたいことに、そんなふうに言われることが、度々あった。


病室から見える隅田川を眺めながら、毎朝一杯のコーヒーを飲むのが日課だった患者さんがいた。
「私はこの歳まで独身だから、もう私がどうなろうと、誰にも迷惑かけないのよ。自分のことは自分でやれるしね」そう言って、いつもハツラツとして、辛い治療を乗り越えてきた方だった。
悪性の、リンパのがんだった。

まだ60代前半で、自分のことは自分でしたいという思いの強い方だったけれど、ある日、トイレが間に合わなくなった。そのことを、看護師にも言えないでいたのだろう。綺麗好きだったのに、副作用の辛さで、シャワーを浴びられるのは2日に1回になった。「ミキさん、シャワーお好きだったでしょう。一人じゃ辛くても、お身体洗うのを私がお手伝いすれば、ミキさんは座ってるだけでもサッパリできるわよ」と、お手伝いを提案しても、「大丈夫よ、自分で入れる時に入るのが一番いいからさ」と断られた。だけど、「じゃあせめて、少しでも疲れずゆっくり入れるように、シャワーの準備だけでもお手伝いさせて?」と着替えを手伝うと、下着が濡れている感触が伝わった。あぁ、やっぱりトイレも間に合っていないんだなぁと、そこで分かった。

例え病気だって、長年一人で強く生きてきた過程があって、今のミキさんがいる。羞恥心はあって当然だ。トイレが間に合わなくなったことを言うのも嫌だけれど、言えないこともまた同時に辛かっただろう。なんと言えばいいだろう。様々な言葉の引き出しを片っ端から開けても、なかなかかけるべき言葉なんか選べなかった。

「ミキさん、新しいお着替え用意しておくから、ゆっくりシャワー浴びてきて?そうだ、おトイレまで、ちょっとくらい時間がかかっても大丈夫なような、良いパッドがあるのよ。お下着に重ねておくから、試してみて?もし合わなかったら他のも持ってきてみるから、また相談しましょ?」

できるだけ深刻さを持たせずに、さも、当たり前かのようにその言葉をかける。それも、大切な看護技術だと思う。

患者さんによっては、30代40代であっても「やっぱオムツ履いたほうがいいか。この歳でおもらしするなんて嫌な病気になっちまったもんだよな〜」なんて、空元気かもしれなくても『言える』人もいる。だけど、そんなストレートなことを、言えない人だっているのだ。仕方がないことだって自分でもわかっていても、看護師になんて気を遣わなくていいとわかっていても、それでも言えないのは、それは多分、人間の尊厳の部分なんだと思う。その人らしく生きていくことが、その人にとってどれだけ難しくなったって、その人の心はまだそうじゃなかった時のままだから。


やがて、ミキさんが朝のコーヒーを飲めているのかが、ミキさんのその日の元気のバロメーターになった。お、今日も窓際にいる。少し調子がいいかな。あぁ、今日はまだ寝ているな、夜あまり眠れなかったのかな。そんなふうに、ミキさんがコーヒーを飲める朝を、1日でも長く迎えられるように、そう祈るような気持ちで、抗がん剤の投与と、副作用の予防・対処に努めた。ミキさんと朝日に反射する隅田川の水面を眺めながら、「今日も朝がやって来たね。」と、夜勤を終えられる日は、私も自然と元気をもらっていた。

悪性リンパ腫は、その人の生活習慣だとかそんなことは関係なしに、何も悪いことなんてしていないのに、ただこれからも生きていたいだけなのに、突然体を蝕んでくる癌だ。誰だってどうして私がって、弱音を吐きたくもなるだろうに。それなのに、ある日、ミキさんの癌が、視神経に浸潤して、目が見えなくなった。あんまりだった。そんなことってないよなと、心から病気を恨んだ。


食欲がなくなった。


手足が思うように動かなくなり、ナースコールが押せなくなった。


息を吹きかけるセンサーで呼んでもらうように変更したものの、「一生懸命に息を吹いたって、うまく呼吸もできなくて反応しないし、ずっと顔の前にこんなセンサーがあったんじゃ、ため息だってつけないじゃない」そう言って、ストレスだけが溜まっていった。いたたまれなくなった。

「この間まであんなに元気だったのに。もう、ミキさんをみているのが辛い。」そう言って泣き出してしまう新人の看護師もいた。その気持ちも、痛いほどによくわかった。

ミキさんは、自分でコーヒーを淹れられなくなった。それでも、パックのコーヒーにストローにさして、お口までお手伝いした。今日は飲めなくても、明日は飲めるかもしれない。コーヒーのいい匂いをかいで、あの朝日に反射する隅田川のキラキラを、瞼の裏に思い出せるかもしれない。そうやって、できるだけできるだけ、ミキさんがだいじにしていたことを、なくさないでいたいと思った。

「私さ、体は動かなくなっちゃったけど、頭だけはしっかりしてるのよ。だからこそ色々考えちゃって、嫌だね。」そりゃ、そうだよなぁと思った。
笑顔が少なくなってしまったのも感じていた。

そんな時に、言われた言葉だった。


「メメさん、今日担当?よかった…
あなたの声を聞くと、安心するの。」


誰かを心から助けると、
かならず自分自身も助けられている。
これは人生でもっとも美しい
お返しである。

ラルフ・ワルド・エマーソン


看護師になって5年が経った。

たったの5年だ。
だけどこの5年間、私はずっと、学生の時に抱いたある思いを胸に患者さんを看てきた。


脊髄損傷という病名の、ショウゾウさんという方に出会った。在宅看護学実習という、訪問看護の実習の時だった。

ショウゾウさんは、中学を卒業してから5年間、航海士として船長になる夢を抱いて、海の無い長野県から県外の学校へ行った。毎日友達と海へ出て、スキューバダイビングをしたりして。漁師の子どもたちは「ほら、そこにサザエがいる!」と当たり前ように教えてくれたけれど、海のない長野県で育ったショウゾウさんには、サザエと岩の区別もつかなかったんだって。それでも、毎日がとても楽しかったって言ってた。

「実習船では、日本丸っていう大きい船に乗ったんだ。廊下を出て、まっすぐ行ってごらん。」

その通りに行ってみると、その日本丸の大きな模型が飾ってあった。レプリカでもその大きさはよく伝わった。「大きい船ですね」って言ったら「よくそう言われるけどさ、海の広さに比べたらそんな船なんて、ちっぽけなもんよ」って笑ったの。

それを見て、「あー、この人は、広い世界を知ってるんだなあ」って思った。その人が見た広い世界を、私も知りたくなった。

「ショウゾウさんが見ていた海を私も見てみたい!」

そう言ってショウゾウさんのいる部屋に戻ってハッとした。ショウゾウさんは、23歳のとき、仕事中に船から落ちて脊髄損傷になってからずっと、体に麻痺が残っている。自分の意思では体を起こすこともできない。食べるのも排泄も自分ではできない。昔の話からそんな面影を感じることができない狭い部屋のベッドで寝ている姿のショウゾウさん見て、あぁ、あの海をもう一度見たいと一番思っているのはショウゾウさんだろうに、行きたくても行けないことだって一番わかっているだろうにと、目を背けたくなった。

そんな私を見て、ショウゾウさんはこんな話をしてくれた。

「最初はね、近所の人や友達に『あそこの家の人はあんな体になっちゃって』と、物珍しそうな、かわいそうな、そんな目で見られるのが嫌で、家に引きこもり続けたんだ。死にたいって、そればかり思っていた。そんなある日、名古屋へ行かなきゃならない用事ができて、久しぶりに出掛けて気づいたんだよ。あー、自分のことを知っている人達の前に出るのはあんなに嫌だったのに、自分のことを全く知らない人には、自分から道を聞いたり話しかけられるんだなって。それが転機だったね。割りばしにガムテープを巻いたものを咥えて、パソコンのキーを打つ練習をして、ネットで同じ脊髄損傷の先輩と知り合った。その人に言われたこと。『お前、それでいいのか?』そこから俺の人生が変わった。球技なんてやったこともなかったけど、誘ってくれた先輩のいる車いすバスケットボールチームで、選手としてプレイを始めた。今では仲間に会える土曜日が何よりの楽しみだ。今は同じ境遇の人に元気を与えられるように講演会をやったり、学生の前で経験を話したりしている。トイレにいけなくておしっこの管を入れてるからさ、悪くならないように、毎日水を2ℓを飲むのも日課だ。俺は、今を生きている。あの時、死ななくてよかった。」

死ななくて、よかった。

死にたいと、そればかり考えていたというショウゾウさんが、死ななくてよかったと力強く言った。

船長になるという夢を追い求めて故郷を出て、一番これからだという時に、不運にも怪我をしてからの40年間。ショウゾウさんがどれほどの思いを抱えて生きてきたのかなんてはかり知れない。いきなり思うように体が動かなくなったら、見てる世界はガラッと変わっちゃうだろうなって。私がそうなったら、こんなふうに前を向けるまでに、どれだけの時間がかかるのだろうって。それでも今、ショウゾウさんは逆に、たくさんの人に希望を与える側になっている。


訪問看護の実習で、私たちが普通に暮らしているこの街には、ただ学生をしていただけでは出会わなかったであろう人がたくさん暮らしていたことを知った。五体満足の私よりもずっとずっと前向きに。

そしてそれを陰で支える看護師の力強さも知った。実習で、先輩の看護師からこう言われた。
「ショウゾウさんがこんなに明るくなるまでの何十年、ずっと寄り添ってきたけど、私たちの方が教えてもらうことが沢山あった。今のショウゾウさんにとって、週に一度土曜日のバスケが何よりの楽しみだからこそ、前日の金曜日に、万全の体調に整えてあげるのが今私たちにできる最大限のサポートだと思ってる。ショウゾウさん自身が気をつけてお水を沢山飲むようにしてくれていてもどうしても寝ている時間が多いせいで便秘になりやすくて、土曜日にお腹が張って楽しみにしていたバスケが思うようにできないと、一週間の楽しみが損なわれてしまうでしょう。だから、金曜日に浣腸をして、腸の走行に沿ってマッサージをして、お通じを出せるだけ出してスッキリさせてあげることが、看護師ができる医療的な側面からのショウゾウさんの生活のサポートなのよ」


すごいと思った。
訪問看護の力をどこでどう発揮するべきか。それを、その方一人一人に合わせて生活と病気を絡めて考えた上で実践するプロの技を見た気がした。

私も、例え病気があったって、この街で暮らし続けていこうとしている人の根っこを支えられる看護師になりたいと、そう思った。

その対価として、その人の生き様をみせてもらえるなんて、なんて素敵な仕事なんだろうって。

私は、訪問看護師になりたい。

その時、そう思った。

あの時の気持ちを忘れないように忘れないように、大切にして、看護師を続けてきた。人には誰しも、生きてきた背景があるんだってことを。


医療は、ハンディキャップのある人が、少しでも安心してこの街で暮らし続けるためにあればいいと思う。

24時間、いつだって連絡すれば家に看護師が来てくれる心強さ。週に一回でも、自分や家族のことを気にかけて様子を見に来てくれる人がいるという安らぎ。自分ではなかなか気付かないちょっとした異変に気付いてくれる人がいる安心感。

そんなものがあれば、その人がその人らしく生きていける手助けがきっとできるんじゃないかって。

だから私は、夢だった訪問看護師になるために、病院という場所から大きく一歩、外へ出た。


さよならは、いつだって少しの寂しさを残すけれど、病棟勤務最後の日、共に働いてきた同僚から

「在宅にメメさんがいると思うと安心して退院準備ができる」

と、そう言っていただけた。

病棟と在宅の繋がりができたと思うと心強いよと、
そんな言葉をもらえたことが、何よりの財産となった。

「あなたの顔を見ると安心する。」

そう言ってくれた、患者さんたちが、それが私の強みなんだってことを教えてくれた。


***


「ハンさん、私この3月でここの病棟やめるのよ。」

ハンさんは、私が行く先の訪問看護を元々導入していた方だったので、退院したら今度は私からハンさんのお宅へ行くはずだった。

「だからね、ハンさん。次は訪問看護師としておうちに行くから、絶対に退院して、ハンさんのおうちでまたお会いしましょうね。」

そう言ってお別れをした数日後に、ハンさんは病院で息を引き取った。

そんな世界だ。
虚しさもある。
続けていくのが辛くなる時期もある。


だけど、この間は、シンちゃんがついに退院できたってことを聞いたんだ。

アイドルになるのが夢のシンちゃん。

あの夜、どうしてここからいなくなるのかをお部屋に話しに行った日。
「新しい場所で、私がずっとやりたかったことをやるのよ」って言ったら、「それなら嬉しい!」って泣きながら笑ってくれた。

「メメさんがテレビつけたら私が映ってるようになる日がくるように頑張るから、いつか見てて!」

と、そんな嬉しい約束のお土産までくれて。



自分がこの世界を生きたことによって、
ほっと息をつけた人が一人でもいること。
これが人生で成功したということである。

ラルフ・ワルド・エマーソン



4月。

陽の光をあびながら、久しぶりに病院の外に出て、この街で暮らす人のもとへむかっている。

桜が綺麗だなぁとか、風が気持ちいいなあとか、
登校する子どもたちの様子とか、
グズッてる赤ちゃんを一生懸命に抱っこしているパパとか、
パリパリしたスーツの新入社員とか。

この街は生きているんだなって、肌で感じながら
この街の、いろんな景色を横目に見ながら、
新しいスタートラインに立てました。

患者さんが頑張る姿をみると、命の尊さに気づく。生きてるっていいなあって思う。勉強をしていると、人間の体ってすごいなぁって思う。看護研究をすると、データや国の現状を見て、なんとかしたいって思う。

まだまだ、これから。







※登場した方々は全て架空のお名前です。


過去、下記のノートにコメントをいただいた方々に、深く御礼申し上げます。あの時はひとつひとつのコメントに、本当にとても救われました。勤務体系が変わり、なかなか次の道に進めたことを書けないでいましたが、ずっとお礼を伝えたいと思っておりました。これからもつまずくことや道に迷うことが沢山あると思いますが、あたたかく見守ってくださる人生の先輩や、こんな私のことも気にかけていつも読んでくださる方々がいらっしゃるので、なんだか安心していられます。ありがとうございます。







最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。