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【第12回】グラフィックの世界に入り込め。

設計会社での1年ちょっとの間、下っ端ながらPCを扱わせてもらったり、内田塾に通ったりいろんな経験をさせてもらった。Macに触れ、自分が考えたものが瞬時に画面の中に表現ができることに遭遇した俺は、インテリアからグラフィックへ興味が動いていた。

転職雑誌を数冊見ながら、片っ端から電話、もしくは履歴書を送りまくった。面接すること数10件、美大やグラフィックの専門学校も出てないし、インテリアでの経験も1年ちょっと。ほとんどの会社の反応は悪かった。面接してくれたところもあったが、

「そのままインテリアやった方がいいんじゃないの?」

「経験が...ね...」

そうです。経験はございません。ないけどやる気はあります。
それしか俺にはなかった。提出する作品も下っ端なのであるはずもなく、自分で作品を作るのでもなく、仕事でやらせてもらったCGをプリントして持っていくしかなかった。

ことごとく落ちた。

「ん〜〜〜、こりゃグラフィックの専門学校を探すしかないか...」

もうこれが最後だと思って履歴書を送ってみた。季節は夏だったと思う。

1本の電話が鳴った。

「面接をするので、〇〇日に来てもらえますか?」

ひとり、ガッツポーズした。まだ受かってないけど。

相変わらず、作品は仕事で作ったCGのみ。その会社の社長と面接が始まった。
普通の大学(商学部)を出ていること、Macが触れること(初歩的なことくらい)、高校からはじめたラグビーのこと(大学時代はサークルと母校のコーチを4年やっていた)

後日、その会社から連絡がきた。結果は...合格

合格理由はラグビーを7年くらいやっていたことが決め手だったらしい。いま思うとその合格理由は「?」だったが、そんなことは構ってられない。グラフィックデザインの世界の隙間に入り込んだのだ。

グラフィックデザインの扉が開いた瞬間だった。そのとき俺は24歳だった。

その会社は音楽業界のデザインを主としていた。CDやポスター、チラシなどをデザインする会社だ。入社が決まって働く日がきた。試用期間3ヶ月の契約だった。憧れた世界に入り込んで嬉しかったのだが、俺は入社が決まった時からすでに決めていたことがあった。

2年で独立すること

24歳で転職し、27歳前には独立をしたいと無謀にも考えていた。

時間がない。

試用期間を短縮できるように、人の倍はやったと思う。とにかく社長に認められるように積極的に動いた。早くいろんな経験をしたかった。独立のために。

その当時はMacはあったが、制作にはほとんど使われていなかった。「手引き」という作業で、版下があり、その上にトレーシングペーパーを貼り、文字の指定(大きさや書体など)、色の指定(CMYKの4色、もしくは特色を数字で指定していく)をする。文字や線の指定をして写植という紙を写植屋という専門業者に頼んで作ってもらう。Macでは思い描いたものが画面上にでるのだが、手引きは想像したものを数字で示したり、色校正がでるまで色味などが完全にわからない。ものすごくアナログな世界だ。これには経験がものをいう。とにかく早く覚えた。言われる前に準備もした。

その願いが伝わったのか、試用期間を1ヶ月で済ませ社長の下で少しずつ仕事を任せてもらうようになった。撮影にも同行させてもらい、カンプ制作の時はその頃好きだったThe FaceやDazed and Confusedなどの洋雑誌を購入し、社長の知らない世界を見せ、写真の撮り方やレイアウトの仕方などを提案していた。

2年目には仕事を任せてもらえるようになった。社長や上司が作ったCDの副産物の雑誌広告や店頭のチラシやポスターの制作、インディーズバンドのCD(撮影があれば、撮影も見様見真似)をまるっと自分だけでやってみたりした。

その中でも一番デカかったのは、いまはタレントの鈴木紗理奈のデビューシングルを社長の管理のもと、アートディレクションをやらせてもらったことだ。併せてプロモーションビデオも志願して、撮影監督の下で企画から舞台美術までアートディレクションをやらせてもらったことはいい経験だったと思う。よく2年目のやつに任せてくれたなと、いまでも不思議だ。

世の中はグラフィックのスターたちが綺羅星の如く現れ、グラフィックブームだった。俺もその影響を多大に受けていた。スターたちがMacを駆使してつくる作品は、見るものすべてカッコ良かった。

会社でまともにMacは使っていなかったものの、俺は積極的にMacを使って、手引き用の素材を作っていた。最終的には、フルでDTPがやりたくて試みたが、印刷会社が対応できなくて、受け取ってくれない。印刷の営業の人とも何度もケンカしたことを思い出す。

2年目の中盤に差し掛かった頃に、そろそろ独立が現実味を帯びてきた。独立するには最初から仕事がないとダメだと思い、友人が某雑誌の編集をやっていたので、彼を呼び出して仕事のお願いをしたこともあった。

いまでこそ雑誌もDTPと言われるデジタルで制作するのだが、その当時は「手引き」だった。Macはほとんど誰も使っていなかったんじゃないだろうか。(Asylの佐藤直樹さんの初期のWierd日本版くらい)
雑誌の手引きは、CDをつくるのと少し勝手が違っていた。CDはビジュアルが多いが、雑誌は文字の構成で成り立っている。編集の友人から2ページの仕事をもらえることになったのだが、雑誌の作り方がわからない...。

しかし、独立するためにはやるしかなかった。ハッタリもどんどんやった。

担当編集の人との打ち合わせでも、

「原さん、いつくらいにデザインあがります?」

虚勢を張りつつ、「ん〜1週間くらいですかね〜」

今思うとゾッとするのだが、たった2ページだ。多くても制作期間は1日くらいだ。1週間...それくらい何もわかってなかった。雑誌なんてやったことがなかったのだから。

受けたものの、指定のやり方がわからない。
打ち合わせのあと帰り際に、編集部のコピー機の横にあった刷りミスの手引き指定されたコピー用紙が大量に捨てられていたものをごっそり拝借して持ち帰って、夜な夜な会社で解読したり真似してみたりして試行錯誤の連続だった。

仕事をもらい続けるには自分の売りが必要だと考えた。その当時の自分の売りは「色」だった。

日本人がよく見る色を辛気臭いと俺は嫌っていた。好きだった海外の雑誌などをみて、彼らにしかない色味を採用してみた。色は生活環境や気候などに左右されるので同じ色でも明るさなど発色が違っていたからだ。

現在のSLOWは雑誌をメインとしてるのだが、ここでやってなかったらいまのSLOWはなかっただろう。

無謀に独立を決めて、無闇に手当たり次第なんでもやった。この世界でご飯を食べていくには退路を断つしかなかったのだ。

なぜ早く独立したかったのか。
人に指図されることが嫌いで、自分のケツは自分で拭きたかっただけだった。

2年経ったある日に、俺はとうとう独立を果たした。

名前はWORLD STANDARD。世界基準。

大きく出たものだ。

それから1年、食えない日々が待っていたのだった。

(つづく)



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