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7.嵐の中の日々/ロバート・ハリス、家を建てる。

初めて自分の家となったシドニーの繁華街の近くにある4階建てのテラスハウス. . . ここでの生活はとても優雅で充実したものであると同時に、波乱に満ちたものでもあった。

 1階の一部屋を妻のオンディーヌの仕事部屋(彼女はここでクレヨン絵を描いていた)、もう一部屋には本棚やデスクを置き、ぼくの書斎にした。書斎からは中2階にある庭と、そこへと上がる石段が見え、陽光も豊富に注ぎ込んできた。ぼくはこの部屋で読書をし、友人を集めてポーカーゲームに興じ、しばらくすると映画監督を含む友人2人と映画の脚本を書き始めた。

 新居には以前から飼っていたレイディというロシアン・ブルーの雌猫を連れてきたが、入居して間もなく、オンディーヌが家にアンゴラ兎を連れて帰ってきた。シドニーの中央市場で買い物をしているときに目にし、可愛いから思わず買ってしまった、ということだった。スナッピーと名付けたアンゴラ兎はレイディーの親友になり、後にレイディーが子猫を4匹産むと、子猫の子守をしてくれるようになった。

 オンディーヌのサプライズはこの後も続いた。ある日、同じ中央市場から雄と雌のウーパールーパーを1匹ずつ買ってきたのだ。これも、「可愛いから思わず買ってしまった」ということ。ぼくたちは雌に「ウーパー」、雄に「ルーパー」という名前をつけ、スナッピーともども家に招き入れた。

 住み心地の良い家だった。リビングには暖炉があり、冬の間はリビングもダイニングもキッチンも、上の階のベッドルームもずっと暖かかった。家は丘の上にあったので、夏にはリビングのベランダから涼しい微風が吹き込んできた。

 近所にはこの家を売ってくれた映画監督の友人のフィリップ・ノイス一家がいたし、彼らの他にも友人が何人か住んでいて、家にはよく誰かが遊びに来ていた。週末にはシドニーの友達を大勢呼んでパーティーを開くこともあった。

 家の近くにはシドニーでも有名なイタリア系のカフェが3軒あり、ぼくは毎朝、その中の一番新しい「アンディアモス」というカフェへ行き、美味いカフェラテを飲みながら新聞や小説を読むのが日課になった。

仕事も色々とやった。
テレビ映画の撮影が終わるとともに、テレビCMや企業広告をオーストラリアに撮りにくる日本のクルーを全面的にアシストするコーディネイト会社を友人と二人で設立。撮影やロケハンやモデルのオーディションなどに奔走する生活が始まった。

 他にも映画関連の仕事、カンタス空港の機内ニュースのキャスターの仕事、オーストラリア・ツアーを敢行する歌舞伎座のプレス・オフィサー(報道責任者)のポストなどもこなしていった。

 12月に入って間もなく、長男のシャーが生まれた。3600gの、元気な赤ちゃんだった。ぼくは家中をウェルカム・デコレーションで飾り付け、妻と息子を迎え入れた。

 旅人ロバート・ハリス、38歳にして家を持ち、子供をもうけ、人生の絶頂期を迎える. . . と言いたいところだが、当時のぼくは大きな問題をひとつ抱えていた。妻のオンディーヌとの仲が、これ以上ないというぐらい、劣悪だったのだ。

 ぼくたちは朝から晩まで、ことあるごとに衝突し、喧嘩ばかりしていた。簡単に言ってしまえば、相性が悪かったのだ。彼女はぼくの、ぼくは彼女の怒りボタンの在り処を全て熟知していて、ちょっとしたことでそれらを押し合った。この状態はもう長い間続いていて、子供が出来れば少しは良くなると思っていたのだが、実際はもっと悪くなった。我々の口論は激しさを増し、何日も言葉を交わさない日も多々あった。

そんなとき、一番の救いは幼い息子と2人だけの時間を過ごすことだった。ぼくは小さいシャーを連れてよく長い散歩に出た。ビデオショップに行ったり、カフェへ連れて行ったり、町に数多くある公園へ行ったり、たまにはタクシーに乗って近くのビーチまで行った。

きっとオンディーヌも同じように思っていたのだろう。シャーが2歳のとき、彼女は彼を連れて自分の母親がブティックを経営するバリ島へ遊びに行き、2週間の予定が2ヶ月帰って来なかった。

妻と、そして家との別れはあっけなくやってきた。ぼくが日本とアメリカの合作映画の撮影に加わるために、香港へ飛ぶことになったのだ。映画の監督、柳町光雄さんのアドバイザー兼通訳として招かれたのだ。

香港での撮影は2ヶ月ほど続き、その後、日本での撮影、アメリカでのアフレコ、そして再び日本での編集と字幕付けの仕事が全部で半年ほど掛かった。その間、オンディーヌは息子とまたバリ島へ行って彼女の母親と過ごしていたので、ぼくは一人で考える時間がいっぱいあった。映画の仕事が終わる頃、ぼくは彼女との離婚を決意していた。

映画の仕事が終了すると、ぼくはオーストラリアへ戻ることを断念し、今住んでいる、横浜の実家へ転がり込んだ。オーストラリアでの仕事は全て友人に譲ってしまっていたし、人生を今一度、リセットしてみたかったのだ。ぼくはここでフリーランスの仕事をしながら母とともに2年間、息子のシャーの面倒をみた。その内、東京のFMラジオ局、J-WAVEでのDJの仕事が決まり、日本での生活もやっと安定したものになった。それから間もなく、オンディーヌとの離婚が成立し、彼女はシャーを連れてバリ島の母の元へと帰って行った。

シドニーの我が家へは一度だけ訪ねていった。オンディーヌと別れて3年ほど経った頃だろうか。ぼくはラジオの仕事でシドニーを訪れ、オーストラリアに戻っていた息子に会いに行ったのだ。

家は懐かしかったけど、レイディもスナッピーもウーパーもルーパーももうそこにはいなかった。レイディとスナッピーはオンディーヌの父親のもとに貰われていき、ウーパーとルーパーは死んでしまっていた。オンディーヌはそれから数年後、この家を売ってシャーとクイーンズランドの田舎へ引っ越して行ったので、家を見るのはこれが最後だった。

話を現在に戻すと、家の建て替えの契約をA社と結んだ今、ぼくと妻のリコはバスやキッチンやトイレの設備の会社を週に1回や2回の割合で見にいっている。どの会社の製品も気に入ったところもあるし、そうでないところもあり、たくさん見ていくうちにどれがどれだったか分からなくなっていくが、リコと感想を言い合いながらショールームを回るのは決してつまらない体験ではない。

つい先日、某社のキッチンのカップボードをチェックしているとき、フッとシドニーの家のことを思い出した。新居に入った翌日、オンディーヌはキッチンが気に入らないと言って、ハンマーでカップボードを破壊し始めた。ぼくが呆然と見守る中、彼女は弟の力を借りて、結局2日でキッチンのほとんどの設備を粉々にした。でも、それからぼくが香港へ行くまでの3年間、キッチンは修復されることなく、半壊状態のまま放置されていた。そう、キッチンだけが、まるで戦時下で砲弾を受けた家のような状態だった。

なぜだろう、あの嵐の中で揉まれているような日々のことを思い出した途端、あのテラスハウスのことが、そう、ぼくが初めて所有したシドニーのあの家のことが、たまらなく懐かしく感じられた。

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