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毎日散文

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2020年3月の記事一覧

006「蜥蜴の街」

006「蜥蜴の街」

 桃の実を切り、とろりとした果汁があふれだすのを、息子が眺めている。瞳の色が、左右で違っている。息子は同級生に、ときどき、瞳の色の理由を聞かれるが、病気や怪我のせいではない。生まれつきの色を、クラスメイトはずいぶん羨ましがっているという。息子はそれを、恥ずかしがっている。津軽びいどろの皿に、桃の切り身が並べられる頃、明かりのない工房で、刀工の男が、灼けた鉄を叩きはじめる。腕はうなりをあげ、身体中か

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005「マザー・シップ」

テレビの中に無数の機械が犇めいていることが、急に不気味におもえてきたと言って、母は、テレビを毛布でくるみ、押入れの奥に押しこんだ。母の機械への猜疑心は、日増しに強くなり、電子レンジも、洗濯機も、自動車も、あらゆる機械を、布でくるみこんでゆくようになった。そうして、いつからか、母は、白い布でかこまれた病室で、ひとりで生きなければならなくなっていた。

 わたしは、いちどだけ病室の母をかいま見た。枯木

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004「密猟者の告白」

うつくしい花の収穫が禁止され、おおくの花屋が、つぎつぎに、ぶちこまれてゆく。陰謀か、乱心か、判然とせぬままに、結婚式にも、墓石にも、花をそなえないことが、常識にかなった行為とされるようになり、丸い石が、代用されるようになる。

豆腐に、オリーブオイルとツナ缶をまぶしたものが流行する。だが、粗悪品がおおく流通したために、街ぜんたいが、しおれた薄荷草のような香りにのみこまれてゆく。

わたしは、山に咲

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003「香水をもつ少年」

星々もあずかり知らぬような、世界の片隅の村の浜辺に、ひび割れた虫籠が落ちている。半分ほど、砂に埋まっている。ひび割れた部分に風が当たり、和紙を爪でなぞるような音が、きれぎれに鳴っている。あとは、闇があるばかりだ。

かつて虫籠を持っていた少年は、虫籠のなかに香水の瓶を入れ、畦道を走っている。少年が小石を踏みしめるたび、硬質な音が水田に響く。香水は、姉が使い飽きて手放したもので、少年はいつも、自分の

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002「月の都」

おれが導かれるように、屋根の上にのぼる日は、殺されてしまった、黒板の妻をおもいだす日だ。じょんがら節が、山のふもとからひびいている。白い音の群れを見つめ、おれは兎の首を折って、殺す仕事をする。籠の中に、白いかたまりが積みあがっていくたのしみを、とりかこんで嗤うものも、はげしく、なじるものもいる。

妻は、無数の石膏片を体内にとりこんで、激痛とともに、口から吹雪のような、白い粉を吐いている。湯治のた

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001「ヴェンタース氏病」

ヴェンタース氏の数式は、あらゆる液体の動きを愛によるものだと証明した。永劫の求愛をつづける海岸線を、彼はじっと見つめ、その生涯のほとんどを、数式を作ることに費やした。学会において、しかし彼は、ほとんど、相手にされなかった。
ヴェンタース氏は、孤独だった。ひとりの友人もいなかった。言葉を話せず、首と手に神経性の障がいがあった。いくつかの学校を転々とした。死んだ親をどこかへおいて、いつからか、海岸の小

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