001「ヴェンタース氏病」

ヴェンタース氏の数式は、あらゆる液体の動きを愛によるものだと証明した。永劫の求愛をつづける海岸線を、彼はじっと見つめ、その生涯のほとんどを、数式を作ることに費やした。学会において、しかし彼は、ほとんど、相手にされなかった。
ヴェンタース氏は、孤独だった。ひとりの友人もいなかった。言葉を話せず、首と手に神経性の障がいがあった。いくつかの学校を転々とした。死んだ親をどこかへおいて、いつからか、海岸の小屋で、ひとりで、暮らしていた。

彼の数式が、骨のような学者たちの検証の対象になるには、ほかのあらゆる数式が否定され、矛盾が発見されるのを待たなければならなかった。絶対に間違いがないと言われ、常識のものとされていたあらゆる数式にまで、根本的な矛盾がみつかり、最後の、ことさらに歪な、のこされた数式だけが、矛盾なく成立したとき、学者たちは、口を開けたまま、ふるえるばかりだったという。

ぶら下がるような、細い月。海岸に、白く美しい女の死体が見つかった。女は、ほとんど液体となっていた。粘着状の女の中に、無数の色屑が浮かび、月の闇の中で、瞳のようにまたたいていた。謎につつまれた死の解明のために、はじめて、ヴェンタース数式が用いられ、人体が、矛盾なく、粘液化することが説明された。病は、ヴェンタース氏病と名付けられた。女は、何百という恋の果てに、細胞壁どうしが溶け合い、ひとかたまりの、ぼんやりした夢のようなものに変化したのだ。

ある夏の夜、海辺の小屋で、ヴェンタース氏の遺体が発見された。遺体は、砂のように、みすぼらしく、乾燥し、つぶれた寝床に、道のように横たわっていた。表情は読みとれず、だれもが、静寂に飲みこまれた。腕は粉々になり、やがて、砂浜と見分けがつかなくなった。

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