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スパイスとしての”不親切さ”~「荒野のストレンジャー」

イーストウッドというと西部劇、という連想もしがちなのだが、彼自身がメガホンをとった作品は少々様相を異にするようである。
今回は、彼の監督作品初の西部劇、1973年公開「荒野のストレンジャー」

おおまかなプロットは「七人の侍」や「荒野の七人」のように、雇われた流れ者が襲ってくる暴漢を撃退するというもの。
なのだが、どうにも様子がおかしい。

”流れ者”であるイーストウッドは、最後まで名前すら明かされない。セリフもわずか。義人かと言うとそんなことは全くなく、女を襲うわ、ただ酒をあおるわで、好き放題。
町の住人を指導するも、繰り出す奇矯な支持に住人らは戸惑うばかり。

背景には、過去に前任の保安官をなぶり殺しにした町全体に対する復讐も込められているよう。しかし、それもなぜ彼が知りえたのか、それを彼が代わりに復讐するのかなどは不明。結局彼の出した奇矯な指示の意味も分からないまま終わる。

西部劇というと勧善懲悪の典型であり、襲ってくるもの・助けるものとの二項対立が明確な描かれ方が多かったと思う。
その中でも彼が出演してきた「荒野の用心棒」「続・夕陽のガンマン」などのセルジオ・レオーネ監督の作品群は、アンチテーゼとして今もなお語られてきている作品でもある。

そう思うと先述の不可解な部分は、レオーネのエッセンスが存分に盛り込まれた証左とも言えるし、イーストウッドなりの工夫も見事にアレンジされているとも言えるのではないだろうか。

視聴後のもやもや感は、当時流行していたアメリカンニューシネマを意識したものとも言えると思うが、そう思うと最近の映画はスッキリしすぎなのかもしれない。
ここで終わるという潔さ、もっと言うと”不親切さ”も、映画のスパイスとしては必要なのかもしれない。

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