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生身に差し迫る恐怖は変わらない~「怒りの葡萄」

表題の「怒りの葡萄」とは、聖書の記述によるもの。葡萄とは人間のこと。神の怒りをかった人間たちということか、それとも罪深き人間さえも怒りに震えるような事態ということか。

舞台は1930年代のアメリカというから、思っていたほど昔のことではない。そんな100年と経っていない頃に、このような国内難民のようなことが起こっていたということは、アメリカ人以外にはあまり知られていないのではないだろうか。
そしてこれが今のアメリカにも連綿とつながってきているのだとも感じた。

資本家たちに耕作地を追われた小作人たちは、仕事を求めて西海岸へと向かう。豊かな果樹園があり、仕事の口もたくさんある。そんな噂話を信じて向かっていくのだが、その道程でも多くの苦難に遭遇していく。やっとの思いで辿り着いたカリフォルニアでも、この世の地獄かという目にあうことになる。
そんなラストに向かって読み進めていくにつれて、苦しくなってくるのである。自分だったらどうするだろうか。何があっても家族を第一に考えるか、それとも信念に従い独立独歩進んでいくか。読んでいる最中、そんなことを考えざるを得なくなるので、とても読むのが疲れてしまった。
でも信じられないことに、これが当時大ベストセラーとなったというのだ。今と比べていくら娯楽が乏しいとはいえ、このような作品を買い求めるなんて、「知る」ことに対して貪欲だったということだろうか。

それにしても”食えなくなる”という恐怖は、人類史を動かしてきた原動力なんだと改めて知らされた。西ローマ帝国はゲルマン族の侵攻によって滅んだが、ゲルマン族もまたフン族の大移動を受けてのことであり、それは飢饉に端を発するものとも言われている。
同時にこの”食えなくなる”という恐怖は、歴史教科書の中だけのことではない。ここに描かれる小作人たちの怒りや恐怖は、まさに同時代的なことである。

どんなに文明や技術が高度になろうとも、生身の部分はそうは変わらない。いくら情報化が進もうとも、この身体性に関わる部分との折り合いについて常につきまとってくる。それは今世界中で起きているコロナ禍で、人類が直面している難問でもある。この難問は、歴史を超克するために我々が解決しないといけないことなのだろうと、この作品を読んで感じさせられた。

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