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すべてを疑った男が見た風景『省察』ルネ・デカルト【書籍紹介】【書評】

ルネ・デカルトとは

ルネ・デカルト(1596-1650)はフランス生まれの近代合理主義哲学の重鎮。近代哲学の祖や、近代的自我の発見者などと言われる。現在に至るまで数多くの哲学者に影響を与えた。また、数学者でもあり、中学校の数学でおなじみの直交座標系を確立した人物でもある。

哲学書というものは得てして難解だが、デカルトの文章は比較的読みやく、特に『方法序説』は初学者によくおすすめされる。

(ただ、哲学の難しさは文章の難しさと比例しない。これもまた難しいところだ。)

『省察』

『省察』は六日間にわたるモノローグでつづられる。本記事ではデカルトの思索が最もスリリングな盛り上がりをみせる第一省察と第二省察前半を紹介する。

なお、『省察』は他にもいくつか訳本があるが、本記事では手元にあるちくま学芸文庫の山田弘明訳を参照している。本書は、脚注としてデカルトの他の著作との関連を多く示しており、初学者には参考になるところが多い。

本当に存在するものとは何だろうか?

第一省察の冒頭、デカルトの旅路は問題提起から始まる。

すでに数年前に私はこう気づいていた。子どものころから私は、いかに多くの疑なるものを真なるものと認めてきたことか。そして、その後その上に築いてきたものが、どれもこれもいかに疑わしいことか。(34頁)

そして、真理の探究者たる主人公デカルトは、確かな知識を得るため「とりあえず、あらゆるものを疑ってみる」という方針をとる。そして、わずかでも疑わしいものは、信じるに値しない不確かな知識と断じ、捨て去っていく。これがいわゆる「方法的懐疑」である。

ここでのデカルトは極めて用心深い。

例えば、人は見間違いをすることから、感覚を通して認識されるもの全般が不確かなものとして捨て去られる。

こう書いてしまえばどうということはないが、よくよく考えればこれは明らかに異常事態である。

というのも、感覚を通して認識されるものとは、物体全般であり、それは眼前のコップも、周囲を取り巻く空気も、窓の外から見える道行く他人も、あるいは自分自身の身体も、その存在が疑われることになるからである。

そして、さらに強烈なのは「すべては夢ではないのか」という、夢の懐疑である。いわゆる「夢オチ」に似ているが、夢オチは夢から覚めた段階の世界を現実とみなし、それ以上は疑わないことによって、物語のオチとして成立するのだが、夢の懐疑は、夢から覚めたとしても、それがまた別の夢の中である疑いをかける。

そして、ついには今生きている世界が夢か現実かは絶対にわからないという結論に達する(荘子の胡蝶の夢は、この種の懐疑の文章表現として好事例と言えよう)。

一般に、この事実に気づいた人は恐怖を覚え、眼を背けたくなる。このことをデカルトは抒情的に表現する。

たまたま眠りのなかで想像上の自由を楽しんでいた囚人が、その後自分は眠っているのではないかと疑いはじめるとき、呼び覚まされるのを恐れて、心地よい幻想とともにゆっくりと瞼を閉じるようなものである。(42頁)

映画『マトリックス』で機械につながれ、心地よい夢の中に戻ることを望んだ、裏切り者のサイファーのようだ。だが、これには一定の理があると言えよう。哲学的には快楽主義者の「快楽機械の問題」だが、話が逸れるので改める。

「私」の発見

すっかり何もかもが存在するとは言えなくなり、深い深い虚無の底に落ち込んでしまったデカルト。探究の二日目である第二省察は、この地点から開始される。

感覚や記憶が疑われ、物体全般が失われ、あらゆる実在性が無きものにされ、まるで暗黒の世界の中にいるかのようだ。だが、デカルトは残された一条の光を見出す。

…私は、世界には全く何もなく、天も地も精神も物体もありえないと、自分に説得した。それゆえ私もまた存在しない、と説得したのではなかったか?いや、そうではない。私が自分に何かを説得したのなら、たしかに私は存在したのである。(44頁)

「私は在る、私は存在する」Ego sum, Ego existoという命題は、私がそれを言い表すごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である…。(45頁)

あらゆるものが本当は存在していなかったとしても、抹消しきれないものがある。それが「私」である。この場合の「私」とは、何かを把握する主体としての私である。

感覚はしばしばしば欺かれる。記憶もあてにならない。だが、そうだとしても、何かを疑っていること、何かを感じていること、何かを思い出していることそのものは疑いようもない。それすらもないということはあり得ないのだ。だって、ほら、今まさに起こっているでしょう?

デカルトはこの「私」を「精神」と見定め、考える主体として確固たる存在者とみなす。

以下参考までに図を添付する。青で表現された箇所が第二省察中盤で証明済みの存在者となる。

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その後、第三省察に移り、神の存在証明へとその歩みを進めていくが、それはまた別の機会に。

※参考文献:『省察』ルネ・デカルト著、 山田 弘明訳 ちくま学芸文庫(2006)

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