労働者E(哲学)

かつて哲学を専攻、修士修了。金策のため労働者に身をやつしながら、哲学書を紹介したり、考…

労働者E(哲学)

かつて哲学を専攻、修士修了。金策のため労働者に身をやつしながら、哲学書を紹介したり、考察したりします。ご質問は記事内のコメントか、下記TwitterのDMまでお気軽にご連絡ください。 Twitter https://twitter.com/worker_EE

マガジン

  • 哲学書評

  • 子どもに嫌われるための哲学

    学校で、家で、子どもに妙な質問をされて困ったことはありませんか?それは哲学的な問いだから答えづらいのです。哲学は子どもっぽいのです。子どものための哲学書は結構あるのに、子どもを黙らせる哲学書はないので、マガジンにしました。学校で困っている先生や、家で困っている親御さんに贈る回答例です。きっとまともな大人は思いつかない妙な回答例です。劇物注意。子どもに好かれるかもしれないですがそれも一興。

  • 『時間と自由意志』読解

    『時間と自由意志 自由は存在するか』青山拓央 筑摩書房(2016)読解のための一連の記事

最近の記事

【読解】木島泰三「心と身体はどのような関係にあるのか?」

はじめに本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、木島泰三「心と身体はどのような関係にあるのか?」を紹介するものである。木島は、古代の哲学者アリストテレス、近代のデカルト、現代のデネットとその対抗馬のチャーマーズを参照し、哲学史を概観しながら、難問「心身問題」の出自と現状を紹介している。 概要と要約現代の「心身問題」は、「魂なき機械論的な世界から、どのように魂や意識といった存在を説明するか」という問題だが、古代のアリストテ

    • 【読解】納富信留「「ある」とはどのようなことか?」

      はじめに本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、納富信留の「「ある」とはどのようなことか?」を紹介するものである。納富はプラトンの専門家であり、本論文はギリシャ語の語源的な「ある」と、パルメニデス、プラトン、アリストテレス以降の西洋哲学の伝統的な探究テーマになった「ある」の意味を対比させた後、「ある」の神秘性や考えることそのものの難しさを述べている。 概要と要約そもそも「ある」を問う、とはどのようなことなのか?パルメニデ

      • 【読解】永井均「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」

        はじめに本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、永井均の「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」を紹介するものである。短い論文であり、文章に複雑さはないが、それがかえって難しい。 この現実が夢でないとはなぜいえないのか?永井の答えは、「この現実は夢の特徴を持ちあわせている」からだ。つまり、現実は夢っぽいのだ。 では、夢の特徴とは何なのだろうか? 要約と概要夢にはさまざまな特徴がある。例えば、醒めること、反省的な意識

        • 反出生主義は、子どもを産むことが悪いことであるという主義だ。これを世界に当てはめたらどうだろう?つまり、この世界を作った神(ないし、偶然に世界が生まれたことそのもの)が、悪である、という考え方だ。反出生主義は、根本的には反世界創造主義であらざるをえず、反キリスト教的なのではないか

        【読解】木島泰三「心と身体はどのような関係にあるのか?」

        • 【読解】納富信留「「ある」とはどのようなことか?」

        • 【読解】永井均「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」

        • 反出生主義は、子どもを産むことが悪いことであるという主義だ。これを世界に当てはめたらどうだろう?つまり、この世界を作った神(ないし、偶然に世界が生まれたことそのもの)が、悪である、という考え方だ。反出生主義は、根本的には反世界創造主義であらざるをえず、反キリスト教的なのではないか

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        • 哲学書評
          15本
        • 子どもに嫌われるための哲学
          9本
        • 『時間と自由意志』読解
          8本

        記事

          「私」はどこにいるのか?⑥

          https://note.com/ro_do_sha/n/n78f1f5d68859 前回の続き。 主体としての「私」の存在を信じるとして、その信じた「私」はいったいどこにあるのか?私たちが認識できない遠いどこかにあるのか?それとも、手が届くような世界の内側にあるのか? デカルトが脳の松果体のあたりに精神としての自我があると主張したのは有名な話である。だが、もちろん、松果体をいかに解剖しても精神を物理的空間で見出すことはできない。もしこの精神を、主体としての「私」と見立

          「私」はどこにいるのか?⑥

          「私」はどこにいるのか?⑤

          前回の続き。 主体としての「私」が認識されることは、まったくあり得ないということがわかった。 私の脳とされるものも、「私の」脳であるだけで、主体としての「私」ではない。開頭して鏡で自分の脳を眺めていたとしても、主体としての「私」の地位を、鏡に映る脳に譲らなければいけない必然性はない(そういった説を唱えることは可能であるが)。では、それをもって、「私」は存在しないとまでいえるだろうか。 絶対に誰にも認識されないものであっても、存在すると信じることは可能である。もちろん、

          「私」はどこにいるのか?⑤

          「私」はどこにいるのか?④

          前回の続き。 主体としての「私」があるとしたら、それは物理的空間にない以上、心の中にしかないのであった。さて、主体としての「私」を心の中で探し当てる術はあるのだろうか。 「私」が主体であるならば、感じられるものではなく、感じるものなのであった。だから、少なくとも自分自身で感じることはできないだろう。何かを感じていれば常に私は感じる側なのであり、感じられる側ではない。 また、物理的空間のように心の中に自分の姿を映す鏡があったとしても、そこに映るものが本当に主体なのかどうか

          「私」はどこにいるのか?④

          「私」はどこにいるのか?③

          前回の続き。 「私」はどこにいるのか?「私」は見る主体なのだから、見られるものではない。さらには、他人の目や鏡を使っても見られるものにはなり得ない。 となると、主体としての「私」は、まず物理的なものではない。脳でもなければ、身体のどこかでもない。だから、物理的な空間に位置していない。 では、心の中にあるのだろうか。もちろん、私の感覚や感情や思考などがあることは手に取るようにわかる。だが、私そのものを感じることはない。これは、たまたま感じられる手段が今のところないだけで、

          「私」はどこにいるのか?③

          「私」はどこにいるのか?②

          https://note.com/ro_do_sha/n/ncb605a21eed4 前回の続き。 見えるものはいつも「私が」見ているし、感じられるものいつも「私の」ものだ。だけど、私そのものはどこにもいない。どこにいるのだろう? ありえる答えとして「私は見るものであり、見られるものではないのだから、見るものとして現れないのは当然だ」というものだ。では、見る主体はどこにいるのだろう?それを確認する方法はあるのだろうか。 一つは、見る主体を誰かに見つけてもらえばいい、と

          「私」はどこにいるのか?②

          「私」はどこにいるのか?

          眼前に景色が広がる。机の上のマグカップからはいれたてのコーヒーの湯気が立ち、本は乱雑に置かれ、パソコンのディスプレイが白い光を放っている。窓の外にはまぶしい日が差し、街路樹のさるすべりは赤や白の花を咲かせている。でも、私はそこにはいない。しいて言うなら、常に「私が」見ている。でも「私が」であって、私そのものはそこにはいない。 キーを叩く指が見える、肩に重さを感じる。頭痛がある。今日あまり気分がよくない。これらは常に「私の」ものだ。私の身体、私の感覚、私の気持ち。でも「私の」

          「私」はどこにいるのか?

          言葉はあらゆる営為に充満している

          事実として、私たちの認識は常に言葉を伴う。言葉なき認識というものはおよそ存在しない。試みに、言葉の外で何かを理解しようとしたり、そのようなことが可能だと信じたとしても、言葉を抜きにして表明したり、内省したり、信じたりすることはできない。なぜなら、表明することも、内省することも、ひいては信じて独り言ちることさえも、言葉によってなされるからだ。認識とは私たちのあらゆる営為の総称である。「言葉の外側」という信仰も結局、言葉を伴ってなされる営為なのだ。 では、言葉の意味そのものはい

          言葉はあらゆる営為に充満している

          精神分析を信じることはたやすい。なぜなら、道徳心による欲望の抑圧が、心に負荷を与えることは当然の感覚だし、潜在していた欲望はしばしばあらわになるし、隠れた欲望がこの社会の川底に流れている(が、誰も存在を認めない)ことはたやすく見て取れるだ。欲望が社会を作り、病を作る。

          精神分析を信じることはたやすい。なぜなら、道徳心による欲望の抑圧が、心に負荷を与えることは当然の感覚だし、潜在していた欲望はしばしばあらわになるし、隠れた欲望がこの社会の川底に流れている(が、誰も存在を認めない)ことはたやすく見て取れるだ。欲望が社会を作り、病を作る。

          AIは意識をもつのか 永井均『なぜ意識は実在しないのか』

          AIは意識をもつのか、という議論がある。かつては、哲学者や科学者だけが思考実験として取り扱ってきたわけだが、おそらく2100年までには、人類全体の問いとなるだろう。 だが、その問の答えは概ね決まっていると言っていい。詳しくは永井均氏の挑戦的なタイトルを冠する『なぜ意識は実在しないのか』を読むとよい。 意識は存在しないとも考えられるし、するとも考えられる。それは、意識という存在者が非常に特殊な存在だからなのだ。その特殊さが理解できれば、AIは意識をもつのか、という問いの答え

          AIは意識をもつのか 永井均『なぜ意識は実在しないのか』

          「なぜ」という問いは、どういう問いなのか

          「なぜ〇〇なのか?」という形の問いがある。たとえば「なぜガラスに一定の力を加えると割れるのか?」であったり、「なぜあなたはガラスを割ったのか?」であったり。あるいは「なぜ世界が存在するのか」であったり。 そもそも「なぜ」という問いは一体何を問うているだろうか。たしか、ウィトゲンシュタインが『青色本』でも言及していたが、この問いは二つの種類に分けられる。この二つの種類はしばしば混同されているがゆえに、哲学的にも混乱を招いているが、厳密に分けることによってクリアに整理することでき

          「なぜ」という問いは、どういう問いなのか

          「なぜ世界は存在するのか?」という問いはどういった問いなのか?永井均『哲学の密かな闘い』を読みつつ

          問いがもっているべき構造世の中にはたくさんの謎がある。ある不幸な人はこう思うだろう。「なぜ自分だけこんな目にあうのか?」。また、ある科学者はこう思うかもしれない。「なぜこの世界はこのような物理法則に支配されているのだろうか?」。また、ある人はこう思う。「なぜ世界は存在するのだろうか?」と。 どのような問いも共通の構造をもっている。問われているあり方そのものと、それに対比される他の可能性としてのあり方を背景にもっている。たとえば、「なぜ自分だけこんな目にあうのか?」という問い

          「なぜ世界は存在するのか?」という問いはどういった問いなのか?永井均『哲学の密かな闘い』を読みつつ

          マインドフルネスとタウマゼイン 永井均『存在と時間 哲学探究Ⅰ』第6章を読みつつ

          はじめに 本noteでは、マインドフルネス中に体験することが、「世界の存在に驚く」という独特な経験と本質的に同じであることを説明する。「世界の存在に驚く」という体験は、哲学では伝統的に「タウマゼイン」と呼ばれるものである。この体験は、哲学を理解するうえで非常に重要だと私は考えている。 永井均氏に詳しい方は、「実存」や「世界開闢」に気づく、と言った方が伝わりやすいかもしれない。世界の存在に驚くと何がいいの?と思われた方は、本noteをさっと閉じて、もっと役立つHowTo記事に移

          マインドフルネスとタウマゼイン 永井均『存在と時間 哲学探究Ⅰ』第6章を読みつつ