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【書評】浅田彰『構造と力』


はじめに

1983年に世に出た、浅田彰の『構造と力』が2023年の暮れに中公文庫から出された。手に取りやすくなったことで、どれだけの人がこの本を手にするかわからないが、当時のベストセラーであったことには一定の理由があるだろう。この本はフランス現代思想というジャンルに属するが、この「現代思想」が何をやっているのかを概観するにはうってつけだ。スピーディで、煽ってくるような文体は、普段誰も語ろうとしない虚実と、その反転を予感させる。人名・専門用語が飛び交うが、文意をざっくりおさえながら、どんどん読み進めるとよい。概略を理解した後に精読しつつ、参考文献などにあたって各個撃破していけば、現代思想が正確に学べる、そういう設計なのだろう。千葉雅也氏が付したあとがきに読み方などが紹介されており大変参考になるため、先に一読することをおすすめする。
このnoteでは所感を書いていく。

まえおき

この本は「思想」に位置づけられる。これは「哲学」とは厳密には異なる。この差は、ハードロックとヘビィメタルが聴く人によっては何となく区別できるようなものだ。一見して似ている。だが、よく読むと何を大事にしようとしているのか、何を目指しているのかが違う。
「思想」は、社会がもっている構造をあぶり出し、最後に「社会がどうあるべきか」にたどり着く。そこまでたどり着くには非常に長い道のりをたどるが、最終的な関心は、社会をどう作る「べき」かであり、あるいは、個人はどのように生きる「べき」なのかであり、その視座は政治や福祉に近い。一方で「哲学」は、「世界がどうあるか」、「世界がどうありえるか」だけをただ追い求める。どうあって欲しいか、どうあるべきかを、バイアスと捉える。その視座は科学に近い。本書では6章が著者のポストモダン的な出口戦略なのであるが、私は哲学がメインフィールドであるせいか、どうしても「著者が望む社会」を押し付けられている、あるいは、私がその結論に賛同していたとしても、気持ちよくなる「だけ」だと感じてしまう(そして私はそれを公にすることに魅力を感じない)。一方で、その結論に至るまでの論旨は興味深く読むことができた。自分が何を一番知りたいかによって、思想の価値は大きく変わるだろう。ただ、この仕事は社会や生活においては間違いなく必要であることも確かであろう。思想は社会を変えうるし、一般の人も一定の思想のうえに生きている厳然たる事実がある。この点も強調しておきたい。
前置きが長くなったが、まずこの本の論旨を、多少加筆しつつウルトラ圧縮する。

概要

人間は生まれ落ちた段階で、動物的な制約を遥かに超えた際限のない自由度をもった世界認識と欲望をもつ。ただ、その欲望は享楽的である一方、母との蜜月的、近親相姦的な関係による自己の定立の失敗や、他人との騙し合い、殺し合いが巻き起る地獄でもある。これらは集団としての人間社会を自壊させてしまうため、乳児期に教育されることによって欲望に制限が加えられていく。この制限が言葉によって織りなされる「文化」である。文化は欲望を諦めさせる一方で、社会の中で安定した自我を形成し、はじめてマイルドな生存を実現してくれる。社会に組み込まれた人間は、欲望を諦めさられたことにより、いつもどこか不満足であることを強制される(だから多くの人は神経症者である)。かと言って、文化の封印が弱いと、精神的な病(統合失調症や倒錯)となり、これらもそれぞれ違う種類の生きにくさを誘発する。これらはフロイトやラカンの精神分析による成果である。人間はどうであれ、生きるのが大変なのである。
文化の形には、いくつかの形態がある。近代以前は、超越的で神聖であり、絶大な権力をもつ王のような立場(一般名詞として《父》)が天上人として君臨し、臣民は互いに直接交渉せず、常に《父》を介在して関係を構築する。統制が強固なため、《父》の配下の「個人」は自律的に流動的に立場を変えたり、生き方を変えたりはせず、静的な構造をもっている。だが、先の欲望はなくなったわけではない。抑圧された欲望は、ときおりガス抜きしてやらなければならない。現代でも残っているが、牛追い祭りなどの死者が出るような激しい祭りや、かつて存在していたポトラッチという財の浪費を誇示し合う祝祭など、抑圧された欲望を地上に呼び込んでガスを抜く。そして、そのイベントさえも秩序に取り込むことで、統制の維持に利用する。
近代になると、《父》は弱体化し、「貨幣」がその立場にとって変わる。貨幣はもともと、共同体外の別の共同体との交易に使われるものだったが、共同体の外は、統制外の不穏なもの、カオス的な要素をもっており、これは人間が元来持つ欲望と同じく、《父》なる秩序と敵対する関係にある。この貨幣が共同体内部でも使われることにより《父》を乗っ取り、《父》に代わって信仰を集めるようになる。
貨幣は日常的に取り扱うものである。かつては必要であったガス抜きは、貨幣が日常生活に登場することで不要になる。人々は「儲けよう」と日々思い励むことで、抑圧されたエネルギーをわずかずつ解放する。かつてがガス抜きであるならば、近代は日常的にガス漏れ状態である。地上は欲望というガスがにじんで漂っているのである。
もうかつての《父》はいない。人生はマラソンに例えられるが、このマラソンにはゴールがない。かつては《父》が与えてくれた善き生き方、神の国、極楽浄土などはもうない。貨幣を得ることだけが信仰の対象であり、日々目先の一歩を踏み出させ、ただ脚をより早く、より前に出すことだけが、近代資本主義の信仰なのである。
なぜ私たちはこのレースから降りないのか。《父》なる審判や監督はもういないのにも関わらず。それは、私たち自身が自分を監視するようになったからだ。これが「良心」である。古代の人々は今からみれば実にいい加減である。今や私たちは、見られていなくても真面目である。常に誰かに見られているかのように行動する。教室でテストを受けている様を想像してほしい。近代以前は教室の前方向、視界に《父》なる教師がいた。私たちを見て、悪さが見つかればば罰を受けた。一方で、悪さをしても見つからなければ何も起きない。だが、今や《父》はいない。どこにいったのか。どこにも見当たらない。私たちは疑心暗鬼になる。もしかしたら後ろにいるのではないか。悪いことは「いつでも」できない、実際には後ろには誰にもいないにも関わらず。虚像に怯えた私たちは《父》を自分に内面化し、自分自身で律し、罰する近代的個人になったのだ。こうして至らない現実の自分と、その現実の一歩先に措定される理想的な自分を比較し、徒労の成長物語を演じ続けるのである。
私たちはこの狂ったレースが降りるべきである。その方法は、貨幣的な価値に換金されない「遊び」を、しかも誰にも評価の対象とされない、本当の「遊び」をするべきなのである。現代はファッションや流行に見られるように、何であれ新しければそれだけで価値になる。中身は何でもよい。換金される。そうではなく、もっと本来的な「遊び」をするべきなのだ。
人間は自然に還ることはできない。人間は本能が壊れた動物なのである。かと言って、愛憎渦巻く幼児に戻ることもできない。

所感

本来的な「遊び」については多くは語られていない。これがポストモダン的な社会から一線を引く撤退戦のようだが、これは別の機会で学ばなければならないだろう。

さて、これまでの話を知って、そしてそれが正しいと仮定したときに、私たちはどのように生きる「べき」なのか。私たちは資本主義制度に組み込まれている。そしてかかる苦痛を強いられる。単独で制度から逃れることはできない。明日の食事さえ困ってしまうだろう。ドロップアウトし、アウトサイダーにならないのであれば、魂だけでも売り飛ばさないように、資本主義に組み込まれないような聖域を隠しもたなければならないのかもしれない。まったく社会とは関係のない、他の歯車とまったく噛み合わず、ただ空転するだけの歯車を用意するべきなのかもしれない。こっそりとその歯車を回す楽しさこそが、人生を豊かにするのかもしれない。
だが、そのようなことは誰でもやっていることではないか。ここに目新しさがあるのだろうか。魂を完全に反転させて外側に露出させているような人間がいるだろうか。
私は意外にも人々が狡猾にたち振る舞っていることを想像する。他人に知られ、評価された時点で、その評価が良かろうか悪かろうが、それ自体の価値が減じるような行為が、隠されたところで繰り広げられていることを想像する。もちろん、それが私に知られることは絶対にないだろう。それらの行為は他の歯車とはまったく噛み合わないのだから。この世界にはさまざまな種類の秘密があるが、これもそのうちの一つなのかもしれない。私はそれを予感することで満足しなければならない。
だが、これは単なる倒錯ではないか。明るみにでないように行う秘められた倒錯行為ではないか。仮に倒錯行為を勧めたとしても、実はすでに水面下で実践されてはいないだろうか。なぜなら、倒錯は誰に何を言われても、自制を試みても止めることはできないような、強い力をもっているからだ。
私は日常の何気ない会話の中にさえ、この倒錯がにじみ出る瞬間があることを嗅ぎ取る。例えば、ドラマや映画など、多くの物語の中にも登場する。なぜそのようなものが必要なのか。倒錯行為の仮想的な代理体験と考えるのがまずは穏当だろう。人々がそれを楽しんでいる事実、それこそ隠れた倒錯の変奏に他ならない。聖域の歯車は露出しておらず、他の歯車とも噛み合っていない。だが、その回転が生み出す風は、もしかすると他の歯車を回しているのかもしれない。
ただ、この倒錯が徐々に外部にむき出しになりつつあることも、避けがたい事実だろう。LGBTQは公認され、あらゆる人間は平等な市民となり労働力となり、SNSは個人的生活を商品に変える。完全な露出は不可能だとしても、聖域の一部は外部に露出しやすい素地ができている。元来は商品価値とは無関係であるが、他人から「いいね」されることによって満足を得ることもできる(一定ラインを超えると、「いいね」さえもインフルエンサーとして商品価値になる)。
だが、これは別のものが聖域に入る、単なる入れ替わりに過ぎないように思う。結局、反作用的に差別主義は聖域に封印されつつあるともいえる。何が倒錯的なのかは、結局は相対的なのである。もともと人間は本能が壊れている。何を愛し、何を捕食するかについての必然性は、もともと人間には刻まれていない。その社会で肯定されるフェティシズムと、否定されるフェティシズムがたまたまあるにすぎない。その対象が時代とともに変化しているだけにすぎないのだ。だから、この手の話をする動機そのものが、学問的意義からすると、不毛なのかもしれない。たまたま自分が生まれ持った倒錯的傾向性が社会で受け入れられないものであった不運に端を発しており、その復讐でしかないのかもしれない。そこには何ら学問的な意義はなく、ただ政治的な動機しかないのかもしれない。
結局、誰もが偶然もちあわせた道具で、これまた偶然設定された社会的な価値を横にらみしつつ、迎合と逃走を繰り返しながら、楽しみや喜びの最大化を目指して生きていく以外に道はない。だが、なぜこの社会はこのようになっているのか。それをふまえて、私たちはどう生きるべきなのか。思想はそのヒントをくれるかもしれない。

参考文献:浅田彰『構造と力』中公文庫(2023)



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