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【読解】納富信留「「ある」とはどのようなことか?」

はじめに

本noteは、『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン(青土社)』に所収された、納富信留の「「ある」とはどのようなことか?」を紹介するものである。納富はプラトンの専門家であり、本論文はギリシャ語の語源的な「ある」と、パルメニデス、プラトン、アリストテレス以降の西洋哲学の伝統的な探究テーマになった「ある」の意味を対比させた後、「ある」の神秘性や考えることそのものの難しさを述べている。

概要と要約

そもそも「ある」を問う、とはどのようなことなのか?パルメニデスが詩編で問題提起し、プラトンが「「ある」と語る人が何を意味しているのか?」と問い、アリストテレスが引き受けて整理し、ハイデガーが「ある」の意味が2000年経った今でもわかっていないことを訴えた。だが、そもそもこの問いは、「問い」としてそもそも成立していない、いわゆる「疑似問題」なのではないか。
通常、存在を意味する「ある」という言葉を使って問われることは、特定のなにかが「ある」か「ない」であって、「ある」そのものは問わないからだ。
また、「ある」のもう一つの用法「~である」(繋辞.コプラ)は、「「ある」とは何であるのか?」の問いと、「「ある」とは〇〇である」の答えに、正しさを先取りして入り込んでしまう。言ってみれば、すでに「ある」の意味が成立していないと、「「ある」どのようなことか?」問うことさえ許されないのだ。
これらのことから、納富は「ある」を問うことそのものが不可能なのではないかと疑っている。
しかし、なぜここで繋辞としての用法を話題に出すのか?納富によれば、「プラトンやアリストテレスが論じた「ある」が、その後「存在論」と呼ばれた「存在する」とは異なることは、ほぼ当たり前として受け入れられている(15頁)」ことであり、古代ギリシャ語においては「「存在/繋辞」という本質的な区別は存在しない(16頁)」のである。
また、納富によれば、存在を意味する「ある」は「ある/ない」の二者択一であり、それ以外のスペクトラムはないのに対して、繋辞の「~である」は「より美しい」など、「程度」を意味することができ、二者択一ではない。また、「ある」はギリシア語では「真である」を含意したりと、近現代の「ある」より多くの意味をもっていたのである。
さて、近現代の「ある」の問いの源流でもあるパルメニデスは、大枠次のように言った。すなわち、「ある」は問える。なぜならそれは「ある」から。だが「ない」は問えない。なぜならそれは「ない」から。
これに対し納富は疑問を呈する。
まず、「ある」は問えるのか?何かが「ある」なら理解できる。木がある、花がある、風がある。だが、端的な「ある」とはわれわれに理解できるのか?
一方で、「ない」には、繋辞としての「ある」が伴わないだろうか?「木がない」は、「木があるの否定」としてしか意味をもてない。端的な「ない」など、語りだすことすらできないではないか。端的な「ない」は問う以前に問題にすらならない。
「「ある」をそれ自体で語ろうとすること、そして「ない」をそれ自体で語ろうとすることは、けっしてできない。そんなあり方を自覚し、自身に深く恥じ入ること。そこにはもはや沈黙しかないのだろうか。(19頁)」と、アポリアで結んでいる。

改めて「「ある」それ自体」とはどのようなことか

アポリアに陥る「「ある」それ自体」は、いってみれば個々の存在するもの全般に含まれる普遍的な「「ある」こと」と考えることができそうだ。まずはこの線で考えてみる。一般的に個々の存在するものは、何らかの性質を伴う。赤かったり、熱かったり。そして、「ある」もそういった性質の一種だと考えることもできるかもしれない。
ただ、二つの観点で普通の性質とは全く異なるだろう。まず、「ある」は存在するものが例外なく持っており、なくなることはない点だ。性質は偶然的なものであるので、取り外しできることが想像できなければならない。あの木が茶色でないことも、2メートルの高さでないことも、想像できなければならない。だが、あの木が存在しないことを想像すると、性質が属するべき木そのものがなくなってしまう。
次に、「ある」それ自体は、赤かったり、熱かったりする通常の性質とは違い、何ら内容をもたない、という観点だ。
ふつうは、こんな妙なものを性質の仲間に入れることは、はばかられるだろう。

伝統的には「ある」を性質と考えることはまずない。アリストテレスが考えた「形相」と「質料」という概念を例にあげてみよう(なお、西洋哲学の形而上学は、このアリストテレスの系譜がスタンダードである。)
「形相」は、先ほどの「性質」とほぼ同義である。例えば「木」であれば、「形相」は茶色い、セルロースで構成される、2メートルである、など、である。一方、「質料」は「形相」が付随し、結びついている基体としての存在である。いわば、「「ある」もの」である。「「ある」それ自体」に近い意味合いに聞こえるが、具体的な個別の存在者についての話なので「「ある」もの」と言った方が正確だろう。木の例でいえば、まず基体としての個別のものがあり、そこに茶色い、セルロースで構成される、2メートルである、などの性質が付随している、ということになる。
難問なのは、質料が形相なしで単独で存在することは、現実としてはない、ということだ。下手をすると、その質料のサイズですら、形相と見立てることも可能である。だとすると、空間的な限界がないことになってしまう。色も形も味もない。そんなものはわれわれは見たことがないし、見る可能性もないだろう。だから、質料などなく、形相が束になって漂っているだけでも十分に私たちの知覚は成立してしまう。いってみれば形相をすべて引き剥がした、裸の「「ある」もの」など、なくても問題ないのだ。だから、単に妄想されたものに過ぎないのかもしれないとも考えられてしまう。
「「ある」もの」に空間的な限界がないとすれば、無限である。単なる物体に無限が含まれるなど、直感に反する。およそわれわれが見知ったものではない。実際、パルメニデスは詩編で同じようなことを言っているのだ。これは人間が認識できるようなものではない、と。ただ、私たちはこの「ある」に似ている概念を知っている。それは「世界」だ。「「ある」もの」を追求すると、どうしても「世界」と近似する。
では、「「ある」それ自体」に肉薄はできないだろうか。先ほど、形相が束になって漂っていてると言ったが、それでもその束は「ある」わけだ。質料だろうが形相だろうが、いずれにせよ「ある」。それらどちらの概念が正しいとしても、それぞれ「ある」。どちらにも与しない「ある」自体が。


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