見出し画像

入不二基義『現実性の問題』第一章の円環モデル

はじめに

以前所感を書いた入不二基義『現実性の問題』を読み解いていく。

本書は「現実と可能」についての考察であるが、基本的に形而上学的(存在論)な哲学書である。心の哲学や時間論がキーワード的に登場するとはいえ、あくまで、入不二の形而上学だと思って読む方が、内容に裏切られないと思う。

まず、第一章に絞り、そこで登場する「円環モデル」を本noteで紹介する。このモデルは本書全体を裏で支える通奏低音となっている。入不二提案の基本構造といってもいいだろう。

ただ、本noteでは、入不二の緻密な論旨には深入りせず、効率よく概観するためにポイントを絞って進めていく。入不二形而上学にまずは入門するためには、迷わずに「円環モデル」をトレースする必要があるからだ。

なお、入不二の特徴として、視覚的な説明を好むという点がある。よって、哲学書としては比較的図解が多く登場する。著作権の関係上そのまま引用はしないが、私の方でも適宜図をつけることにする。

始発点

動的な円環の始発点を定めるのはもともと難しいが、「現実と可能」の関係を考え始めるには、入不二は、とりあえず「何かが起こった(起こっている)」という「端的な事実性」から始めることを提案する。

だが、さっそく一つの疑問がわく。その疑問とは、「何かが起こった」以前に「何も起こっていない」状態のほうがより始発にふさわしいのではないか、というものだ。「1」よりも「0」が根源的ではないか。あるいは、先行するのではないか、という疑いだ。

しかし、入不二は「1」から「0」を目指して遡るためには、どうしても「否定」を経由せざるをえないと述べる。「0」は結局のところ、「~がない」という否定形でしか規定できない。そういった意味では、「否定」は「肯定」に常に遅れてやってくるしかない。

こうして真の始発点は「何も起こっていない」という「無」ではなく、「何かが起こった」という「有」に差し戻される。入不二が特徴的なのは、だから「何かが起こった」という方が始発点にふさわしいと強く主張するのではなく、上記のプロセス全体の存在を認める点にある。

上記の主導権の奪い合い全体を正当なものとらえ、甲乙つけられない拮抗した動的なプロセスとしてイメージするのである。そのイメージは円環モデル全体とはまた別の、始発点の循環的な螺旋として表象される。理由は明記されていないが、直線ではなく、曲線がモチーフとなっている。

可能性

始発点から進もう。次は「可能性」だ。

「可能性」の領域では、始発点の「端的な事実性」は、仮想される「可能性」との対比において「現実」という呼び名がふさわしくなっているだろう。

「可能性」の領域においては、「現実」はあくまで、あらゆる世界の在り方のうちの一つでしかなく、無数の諸可能性のうちの一つとして、相対的なものに転落する。入不二は、「可能性」の領域を、排中律(P∨¬P)を使って、「現実」の転落を描きだす。

排中律(P∨¬P)とは「Pが起こるか、Pが起らないか、そのどちらかだ」という意味だ。排中律(P∨¬P)は、現実(P)に対抗する否定(¬P)を含む。否定(¬P)はPではないことを意味する。排中律(P∨¬P)は、その否定(¬P)が現実として選択される可能性があったことを意味する。現実(P)は、可能性の領域で否定(¬P)という対抗馬と対置されてしまう。

もちろんそれだけでは、現実(P)の立場は揺らがない。あくまで現実なのは(P)だからだ。だが、それまで誇っていた並び立つものが他にない「端的な事実」という立場ではなく、「Pではないことも可能だった」という、相対的な立場に置かれることになる。

入不二は否定(¬P)をさらに分析する。否定(¬P)は実際のところ、肯定項の無限連鎖(Q∨R∨S∨…)であると述べる。そうであるならば、現実(P)の領域は、その他無限の肯定項と対置され、その数において局所化する。現実(P)のプライオリティは、分母に極限値をとる分数のように、限りなく0に近くなる。

以上概観してみると、否定と排中律は、「端的な事実」からしてみれば、「端的な事実」しかなかった絶対的な状態に対して現れる厄災である。もちろん、なぜ否定や排中律などというものが存在するのかは知る由もない。だが、「可能性」の領域を開く力は、これらによってもたらされるということは間違いないだろう。言ってみれば、私たちがよく見知った世界を作るには、「端的な事実」に加えて、否定や排中律によって開かれた「可能性」の領域がぜひとも必要なのである。だから、これを認識を成立させるための超越論的な議論とみることもできると思う。

潜在性

次は「潜在性」である。入不二が第一章で述べているわけではないが、「可能性」までは私たちの認識が届く範囲であったが、「潜在性」は認識が届いているのかかなり怪しくなってくるように思う。ここでは形而上性がいっそう増大する前提で概観していこう。

「潜在性」は、無限の可能性全体が現実性で包み込まれ、「現に潜在している」と見立てることによって見いだされる。「可能性」の領域では、「現実」はあくまで、ある一つの可能性が「現実」になっているにすぎず、無限の可能性のうちたった一つの領域を占めるだけのものだった。だが「潜在性」にいたっては、あらゆる可能性を含んだ全体が、諸可能性同士の区分をすべて含み超えた「現実」なのである。

入不二はなぜ「潜在性」の領域が必要なのか明らかにはしていない。非常に粗雑な推測ではあるが、これは様相実在論における「現実主義」の立場をある程度汲んでいると思われる。以前に紹介したこともあるが、「現実主義」とは、並び立つ可能世界が平等に実在するとみなさず、可能世界は唯一実在する現実世界の中で、想像されたり、物語として描き出されるにすぎないとする、比較的常識的な立場である。

ここまでで登場した、三つの領域を模式図としてまとめておく。色が塗られている箇所が「現実」である。

三つの領域の模式図。色が塗られている箇所が「現実」

「潜在性」それ自体は単一の存在であり、その内部に無限の可能性を含んでいる。そして、「潜在性」から始発点にすえた「端的な事実」が生み出される。こうして、円環は一回転するかのように見える。

ギャップ

だが、「潜在性」から始発点としての「端的な事実」への移行にはギャップが存在してしまう。「潜在性」から始発点に進む根拠がないのだ。だから、「端的な事実」は無根拠に生起する。だが、「端的な事実」から始まらなければ、円環自体がそもそも回り始めない。だから「端的な事実」は生起していることが必然である。入不二はこれを「偶然であることが必然である(根源的偶然性)」と呼ぶ。「必然」も「偶然」も円環の途中で「可能性」の領域ではじめて登場する様相概念であるため、「偶然であることが必然的である」という表現はあくまで比喩的である。このギャップだけに立って、このギャップを眺めても、始発点の生起について描写する術はないだろう。

現実性という力

入不二は三つの「現実」があると述べる。まず、始発点の「端的な事実(現実)」。次に、可能性の一領域に追いやられた「現実」。そして、潜在性の場としての「現実」である。だが、いずれも「現実性」でありながら、そうでもないという。入不二の「現実性」とは、いずれの「現実性」でありつつも、円環を環流する「力の流れ」なのだ。これも形而上学性が一段と強いが、これ以上は別の章で追うことにする。

論理

入不二の表現ではないが、「現実性」が力であるならば、「論理」もまた、この円環を回す力ではないだろうか。私の所感では、中でも「否定」が果たす役割は大きいと思う。

入不二は「端的な事実」の地点で、同一律(P=P)を読み込み、すでに同一律には最小の「否定」が含まれるという。左辺と右辺は同じPでありつつも、異なるからこそ左辺と右辺に分断されている。

また、すでに説明したとおり、「可能性」の領域には、排中律(P∨¬P)によって到達するが、その中でも「否定」は中心的役割を演じている。

また、入不二は、その先の「潜在性」の領域では矛盾律(P∧¬P)が働いていると述べる。なぜなら、Pとその否定=それ以外のあらゆる無限の可能性(¬P)は、「現に潜在している」というあり方で平等に存在していると見立てられるからである。

「可能性」の領域から見れば、本来は現実(P)とそれ以外の可能性は並び立つものにもかかわらず、現実(P)は、相対的に特別な地位を占める。だが、「潜在性」においては、諸可能性も含めてベタ塗りで均質な「現実性」となっている。それぞれの可能性は本来同時に成立しないはずのものであるが、「潜在性」においては矛盾しながら、すべての可能性が、現に成り立っているとされるのである。「矛盾」が主要な役割を果たす「潜在性」の領域においても、「否定」は重要な役割を演じている。

なお、私としては、「否定」の重要視は、どこかヘーゲル的弁証法やパルメニデスを彷彿とさせる。

これまでの簡易的な論旨をさらに簡易化した円環モデルを以下に図式化しておく。

超簡易版の円環モデル

総括的所感

個人的に以下の観点が気になった。今後、他の章を読み、円環モデルの理解を深めたいと思う。

  • 円環を成立させる要素として、始発点の「端的な事実」と「論理」が重要だと思った。世界は、実質をあたえる「端的な事実」とそれを認識可能にする「論理」の両輪があって初めて成立すると言えるのではないか。これを考えるためには、円環モデルを、認識の領域と、超越的な存在の領域を区分したほうがよいと思う。

  • 始発点においては、存在するという以外に何らか内容を含むのか?それを認識することは可能なのか?

  • 「潜在性」の特徴である、「現に潜在する」という状態は認識可能なのか?認識不可能な超越的な立ち位置にはならないか?それを「現に」と呼ぶことが可能なのか?

  • 「ギャップ」の存在は、円環モデルではなく直線モデルがふさわしいことを意味しないか?円環状にすることによって生じるギャップなのではないか?

  • 「ギャップ」から「始発点」への根源的偶然性は、並び立たないものが並び立つとされる「潜在性」が原因なのではないか。「潜在性」は、すべての可能性が平等化されているように見える。そして、「可能性」の領域から眺めると、「潜在性」のようなあり方は理解できない。実際の「現実」は、すべての可能性を内包した「潜在性」としての在り方などしておらず、無限の可能性のうち一つでしかないからだ。すると、「潜在性」という存在論的な領域はどの程度の重要性をもつことができるのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?