見出し画像

多世界説 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第一章 分岐問題 Part4

※本記事は少々錯綜しているため、面倒な方はPart5へスキップしていただきたい。

可能世界意味論とは

前回の記事では、確率論が実在に関与するという前提のもと、分岐問題への応答を考察した。それは、歴史が「偶然」によって分岐のうちから一つ選択され、選択される理由――例えば、なぜそばを食べ、カツ丼を食べなかったのか――については答えはない、というものであった。

では、もう一つの応答である「多世界説」とはいったい何であろうか。そもそも、多世界説とは一体何かを概観する必要があるだろう。

多世界説とはアニメやSFなどでおなじみのパラレルワールドと呼ばれるものにイメージは近い。作品によってさまざまな設定のパラレルワールドがあるが、現実の世界と同水準の世界としてしっかり実在しており、現実の世界とは異なる状態――例えば、A氏がB氏ではなくC氏と結婚している――として存在している、というような想定である。

だが、そもそもなぜパラレルワールドなどというものが登場したのであろうか。量子力学の解釈問題の系譜もあるが、ここでは可能世界意味論を概観する。可能世界意味論とは、様相論理を整理するための理論装置である。

様相論理とは必然性/偶然性、現実性/可能性をなどを扱う論理である。

「必然的な命題」とはあらゆる可能性を考えても常に成り立つ命題である(何が必然的で何が偶然的な命題かは、いまだ論争状態である)。代表的な命題は、「XがAと同時にAでないことはあり得ない」という論理的な必然性、「独身者は未婚である」という定義による必然性(カントのいう分析的命題)、「水がH2Oである」という科学的な真理(クリプキのいうアポステリオリで必然的な命題)などがある。このように、どのような状況を考えても当然に受け入れらなければならない命題ばかりである。

一方、「偶然的な命題」とは「関ヶ原の戦いでは東軍が勝った」や「カントは独身であった」などの出来事に関するものである。この場合、関ヶ原の戦いで西軍が勝つ可能性、カントが結婚する可能性など、他の状態が考えられるため、偶然的な命題と言われる。

これらの命題を可能世界意味論を通すと、理解がしやすくなる。

「必然的な命題」とは想像されるあらゆる可能世界で成立する。だから、この世界の歴史とは異なる世界――関ヶ原の戦いで西軍が勝つ世界やカントが結婚する世界――を想像しても、必然的な命題である「独身者は未婚である」は正しいだろう。反対に「偶然的な命題」は、一部の可能世界では成立しているが、すべての可能世界では成立しない命題である。例えば、関ヶ原の戦いは東軍以外が勝つことも想定できるだろう。

画像1

また、現実の世界で真である命題を「真なる命題」、どこか一つ以上の可能世界で真である命題を「可能な命題」と呼ぶ。上の図のうち、可能世界1が現実だとすると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利することが真なる命題、西軍が勝利することが可能な命題となる。

「可能な命題」とは日常の表現では、「関ヶ原の戦いで東軍以外の勢力が勝ったかもしれない」「カントが結婚していたら?」などの、現実ではないが“もしも”の世界における表現である。

私たちはこの表現を使いこなすことで、後悔したり、幸運を祝福したりできる。例えば、後悔は「もし、あのときそばではなくカツ丼を食べていたら、夕方お腹が空くことはなかったのに」などと考えることである。可能な表現が使えなければ私たちは後悔したり、幸せであることを感じることはできない。日常生活はこの種の可能な表現であふれている。

現実主義と可能主義

この理論装置を存在論のレベルに高めたのが可能世界の実在性の論争である。つまり、単なる理論装置としての可能世界ではなく、「可能世界は実在するのか?」という問題となり、「実在する」と答える場合は「可能主義」という立場となる。「実在しない」と答える場合は「現実主義」となる。

デイビッド・ルイスを主唱者とする可能主義は多世界説に類するものであり、すべての可能世界は対等に実在するとされる。他方、現実主義によれば、ただ一つの世界、すなわちこの現実世界だけが実在し、それ以外の可能世界は非実在的もの――現実世界における何等かの構成物――だとされる。『時間と自由意志 自由は存在するか』60頁

現実主義は現実化している唯一の世界の実在のみを認め、可能世界は現実世界の中で考えられた単なる道具だとする。一方、可能主義はあらゆる想定されうる膨大な可能世界が実在すると主張する。

常識的に考えれば、可能世界は概念をわかりやすくするためだけの用意された装置なのだから、現実世界における何らかの構成物である(例えば、インクで書かれた図や人が発話が意味するところや、想像されるイメージなど)。それに、想像できうるすべての可能世界が存在するとしたら、その数は有限だとしてもおびただしい。ゆえに、現実主義が多くの支持者をもつ一方で、可能主義は異端視される。以下に現実主義の要点を図示し、可能主義については後述する。

画像2

だが、青山は可能主義は納得しがたいが、現実主義は理解しがたいという。これはどういった意味であろうか。

可能な出来事は本来、現実の出来事に潜在的にとって代わることが可能でなくてはならない。可能な出来事と現実の出来事の違いは、現に起っているか否かという一点のみである。だとすると、可能な命題の集合としての可能世界は、現実世界に並び立つ存在でなければならない。可能世界は内容の面では現実世界と遜色がないのだ。

これは次のようなカント的な比喩でも説明できる。想像した100円と現実の100円は、それが100円であることに関して、内容が完全に一致していなければならない。違うのは想像か現実かの違いだけである。想像と現実で内容が異なるのだとしたら、欲した想像の100円を実際に入手することすらできず、現実の100円を思い出すこともできない。だが、それは奇妙なことだろう。

同じように、可能世界も現実世界と内容のレベルが一致していなければならない。可能世界は単なる書かれた文字や絵本の絵、人間の音声の集合ではなく、しっかりと存在しなければならない。他の可能世界と、私たちが住んでいるこの現実の可能世界との違いは、それがたまたま私たちが住んでいる現実世界ではない、という一点に尽きる。

可能主義はこの直観を正面から受け止めるために、あらゆる可能世界が世界として、私たちが住む現実世界の外側に存在することを認める。可能主義によれば、私が反実仮想的な“もしも”を考えたときに指し示しているのは、インクでも音声でもなく、本当に存在する可能世界を指示している、といえるようになるのだ。

それぞれの可能世界は他の世界からみればあくまで可能世界なのだが、その世界の住人からすれば自分の住まう世界が現実世界である。

画像3

多世界説の応答

可能主義ではすべての可能世界が実在する多世界説をとる。では、多世界説の分岐問題への応答はどういったものになるだろうか。

多世界説で考えられる世界像は二つだ。一つは、それぞれの可能世界は単線的な決定論だというもの。これは束ねられたワイヤーロープのように、それぞれの世界は交わらず独立しており、分岐したり融合したりもしないというものだ。

もう一つは、宇宙歴の当初から存在する世界が毎瞬分裂を繰り返しているというものだ。

詳細に入る前に、青山における「分岐」「分裂」の違いを確認しよう。「分岐」は可能性として複数となることを意味し、非実在であるのに対し、「分裂」は実在として複数になることを意味する。多世界説はすべての可能世界が実在するため、世界が複数化したあかつきには、「分岐」ではなく「分裂」したということになる。※ちなみに、前の記事で偶然が実在するとされた世界観では、ただひとつの世界だけがなぜか現実として実在し、他の可能性は現実化せず実在しないため、「分岐」の意味になる。

また、分裂があるなら、「融合」も加味して考える必要があるだろう。

さて、ワイヤーロープ型か、分裂融合型か、多世界説はどちらが妥当だろうか。青山はワイヤーロープ型だという。

仮に世界が分裂・融合するとして、両方の世界の共通部分の所属はどちらの世界になるのか。「世界」というからには、それぞれの世界はそれぞれで完全で完結した全体(全存在・全出来事の集合)でなくてはならない。そのうえで「両方の世界に所属する歴史」ということでいったい何を意味するのか判然としない。であるならば、最初からそれぞれ別の世界であるといった方がシンプルだ。共通部分だと思われた部分は、出来事の内容では同一だが、数的に別の世界の出来事として扱うのだ。

画像4

※上記の青山の説明を私は咀嚼しきれていない。青山によれば「世界」という"すべて"が分裂し複数化することの意味がわからない(前掲書52頁)と、分裂の困難を説明しているが、私にはそれが困難な理由が理解できなかった。というのも、そもそも多世界説においては、複数の世界(複数の"すべて")が実在することをそもそも認めているのだから。複数の"すべて"が困難であれば、多世界説自体が困難だろう。世界の分裂が困難な理由は、”すべて"が複数実在してしまうからではなく他にあるのではないか。例えば、"途中"から枝が出るように分裂することが困難だから、等。複数の世界の共通部分が実在することの困難は一考の余地がある。

※可能主義においては可能世界のうちでどれか一つ特別に現実になっている世界というものは存在しない。どれも平等である。そのため、仮に分裂を認めたとしても、どちらの世界に「今」が進むか、という問題はそもそも発生しない。どの世界もそれぞれ自身にとっては現実世界だからである。可能主義に特別な「今」などはない。

※現実主義では可能世界は実在していないため、世界はただ一つしかない。そのため歴史に分岐はなく単線的な決定論となる。

ここでは青山に従い、可能主義における諸世界は、互いに交わることないワイヤーロープ型と考えるのが妥当だとする。

また、多世界説の重要な特徴として、それぞれの可能世界は他の可能世界に“なる“ことができない、という点だ。もし、自分が住んでいる現実世界での出来事と別の出来事を想像した場合、それは実在する他の可能世界について想像していることになる。他の可能性=他の可能世界を意味するのだ。

他の可能世界は、この現実世界そのものについての可能性を表すものではなく、この現実世界に似た独立自存の世界である。もちろん、この現実世界が他の可能世界のどれかに「なる」ということもない。前掲書65頁

つまり、世界は分岐しない。異なる世界の在り方は、単に他の世界を指し示す。どの世界も分岐はなく、どの時点においても独立しているのだ。

次の記事ではこれまでの分岐問題への応答をまとめる。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?