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分岐問題への応答まとめ 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第一章 分岐問題 Part5

分岐問題への応答まとめ

本記事ではこれまで見てきていた分岐問題への応答をまとめる。

分岐問題への応答を検討するにあたり、自然法則に支配された法則的決定論と非決定性を認める確率論の条件下にわけ、それぞれを前提に据えた場合に、どのような応答が可能かを考察してきた。

まず法則的決定論を前提とした場合は、実在する世界はただ一つの単線的歴史である。

一方、確率論を前提とすると、2つの応答が考えられる。

一つは偶然による分岐を認めるというもの、もう一つは、多世界説でかつ、それぞれの世界が単線的歴史をもつ、というものである。図にまとめると以下のとおり整理できる。

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分岐を許容するのは「②確率論における「偶然」」のみである。一方、「①自然法則的な「決定論」」と「③確率論における「多世界説」」は分岐を許容しない。①は決定性によって歴史が単線化(世界が決定されている前提がゆえに、分岐が消去される)。③は単線性によって歴史が決定論的となる(それぞれの世界には可能性が認められないという前提がゆえに、分岐が消去されるため、実はそれぞれの世界にとっては決定論的)。総合して①と③を青山は「単線的決定論」と呼ぶ。

青山は上記の総括をうけ、単線化による応答では満足できないという。それは、どちらの応答も分岐問題に正面から答えるというより、分岐そのものを消去して、「可能性以外のものにすることによって回答を回避しているようにみえるからだ」(『時間と自由意志 自由は存在するか』65頁)。

可能性概念は一般に分岐問題を生じさせうるようなものとして流通しているのであり、たとえ不明瞭な点があっても、それをかんたんに切り捨てることはできない。(中略)。もしもそうした可能性概念の理解が何らかの錯覚に基づくものだと言うなら、それがどんな錯覚であり、なぜその錯覚があるのかを明らかにしなければならない。前掲書65頁

青山は私たちが見知っている可能性概念は「あるのにない」という要素があるという。決定論における単線化による応答は「あるのにない」をたんに「ない」ものに変質させ、一方、多世界説による応答は「あるのにない」をたんに「ある」ものに変質させてしまっているのだ。

私たちが日常で慣れ親しんでいる可能性概念は完全に「ある」ものでも完全に「ない」ものでもない。現実には「ない」が、可能性として「ある」ものだ。

だから私たちは、反事実的な出来事に思いを馳せることができる。後悔や懺悔、未来への期待、幸運、不幸、自分の意志で人生をよくしようとするなどという当たり前のことが、単線的決定論では捨て去られる。現実の出来事ではないが、現実に起こるかもしれない出来事思い描く。それは良くも悪くも一種の人間らしさではないか?

分岐を許容するためには「偶然」に依拠する必要がある。そして、それは自由意志と関連し、自由意志の存在論的な立ち位置をも決める重要なキーワードとなるのだ。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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