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確率論(偶然性) 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第一章 分岐問題 Part3

前回は決定論的な前提における分岐問題への応答を整理した。今回は確率論的な前提における応答を整理していく。

分岐問題を確率論的に考える場合

決定論以外で考えられる方策として、「確率論」をこの世界の在り方(実在)に関与しているものとして取り入れることが考えらえる。とはいえ、そもそも確率論とは何か。

確率と言われて連想するのは、密度が均一なコインを投げたときに裏が出る確率は1/2である、とか、イカサマではないサイコロを投げたときに1が出る確率は1/6である、などだろう。

数学の授業でおなじみだが、実は確率論が何をやっているかは想像以上に難解だ。

というのも、前回の記事のとおり、自然法則が支配する決定論的な世界では、サイコロを振る前から既にどの目が出るかは確定していると考えるのが自然であり、他の目が出る可能性などそもそもないのだ。

この場合、私たちがサイコロに思いを乗せることができるのは、単に無知だからだ。決定論下の確率は人間が単に無知であることを前提としている。出目は予測できないが、サイコロを無限に振り続けたときの出目の割合を計算的に導き出す、という譲歩的な思考法なのだ。

もしラプラスの悪魔ならば、サイコロの投げ方、形状、重心、初期位置、テーブル面の状態、その他のデータから、試行の都度、出目を必然的に一意に知ることができるだろう。

では、確率論の実在への関与度を強めるとどうなるか。つまり、世界の状態を一意に決定する自然法則ではなく、確率的に事物が実在するという考え方だ。こう考えると、決定論のようにサイコロの出目はあらかじめただひとつに決定されているのではない。

そこから考えられる結論のひとつは、どの目が出るかは実際にサイコロを振ってみなければ決定されない、というものだ。そして、どの目が出るかは「偶然」によるものとされ、理由もなく出目が出ることを意味する。そして、人間がいくら賢くなっても偶然の定義上、出目の理由はわからない。むしろ、出目の理由はないという偶然性を受け入れることによって成立する思考法なのである。

十個のサイコロを振り、すべて1の目がそろう確率はごくわずかだが、現実にそうした目がそろうときにはそろう。ではたくさんの可能性のなかから、この珍しい可能性が現実のものになった理由は何か。確率論的な観点に立つなら、もはやこの問いには答えようがない。九鬼周造の次の一文を見よう。「偶然性は科学の原理的予見となることはできても、まさにその偶然そのものによって、科学には対象として取り扱えないという根源的性格を有ったものである」(九鬼[2012]『偶然性の問題』岩波文庫)。九鬼はここで、科学はまだ偶然性を解明できていないと述べているのではない。そうではなく、偶然性を解明の対象とならない与件として受けいれることで、確率論的な科学は可能になると述べているのである。『時間と自由意志 自由は存在するか』49頁

分岐問題への応答

確率論が実在に関与しているとするならば、分岐問題に対する応答は二つとなる。

一つ目は分岐はするが説明不可能な偶然により、一方の歴史が選択される、というもの。

もう一つは、可能性としての歴史はすべて実在し、一つが選ばれるということ自体が起らない、というものだ。

前者は先の九鬼のいう「偶然」を踏襲したものだ。歴史は分岐する。そして、どの歴史が選ばれるかは「無根拠」である。

後者はいわゆる「多世界説」というものに類する。これは、確率論的な世界において、偶然に依拠しない立場である。多世界説自体が難解なため、次回は多世界説の説明をしていく。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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