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自然法則の決定論 青山拓央『時間と自由意志 自由は存在するか』第一章 分岐問題 Part2

前回の記事では「分岐問題」を導入した。本記事では決定論における分岐問題への応答を検討する。これは三つあるうちの一つ目の応答である。

自然法則の決定論

分岐という世界観を脅かすものは「決定論」である。決定論とは、世界で発生する出来事はあらかじめ決まっており、世界や歴史にはいわゆる “たられば” や "もしも" は存在しないとすると立場である。

決定論にもいくつか種類があるようだが、定番は自然法則による決定論だろう。

「ラプラスの悪魔」という比喩がよく知られている。私たちが住む世界の自然法則を完璧に把握し、かつ、現在の世界の状態を完璧に把握した悪魔がいるとすれば、全時点の世界の状態を完璧に言い当てることができる、というものだ。

自然法則によって、あらゆる時点の状態を確定しているならば、人間の自由意志はおろか他の出来事が起こる可能性は万に一つもなくなる。

例えば、目の前で枯葉がある軌道を描いて落ちたとしよう。あなたは他の軌道を描いて枯葉が落ちることを容易に想像できる。だが、自然法則にしたがえば、他の軌道を描くことはありえない。自然法則はある時点の枯葉の状態(位置や運動量など)から、前後の他の時点の状態を導き出し、必然的に一つの軌道を導き出すからだ。

ただ、私たちは無知が故に予言ができない。いくら他の軌道を思い描いたとしても、それは現実の出来事にはなりえない。予言以外にも、判断に迷ったり、よい結果に期待して行動を選択したりするが、実は結果は既に決定されている、ということになる。

そして、私たちの決断や意志なども脳による営みだとすれば、完全に自然法則に支配された存在となり、決断や意志による他行為可能性も幻想ということになる。

さて、決定論的な前提では「①自然法則」「②ある時点の世界の状態」の二つが与えられれば、世界のあらゆる時点の状態が確定するのであった。

話をシンプルにするために、単純な決定論的な世界を想像しよう。

その世界は原子が一つしかない空間で構成されている。

自然法則は原子の空間的位置をあらゆる時点で確定できるものとして存在するとしよう。この「①自然法則」によると、原子は1秒で1メートル右斜め上に移動する。

例えば以下図1のような状態を想像すればよい。

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だが、これだけの情報では世界の状態は一意に確定しない。なぜなら、以下図2のように世界の異なる状態が想定できるからだ。

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一意に決定するためには、どこかの時点の原子の位置を確定させておく必要がある。それが「②ある時点の世界の状態」という意味にあたる。

例えば「時点t2において原子は世界の中心に存在する」とすれば、自然法則との合わせ技で世界の状態は図1のとおりに決定する(必ずしも"より過去"の時点t1が確定している必要はない)。

古典物理学(ニュートン力学から相対性理論まで)では、ある時点の世界のデータと自然法則があれば、……どの時点の世界のデータでも算出できる。今この瞬間のデータがあるなら、枯葉が十秒後どこにあるのか、百秒後どこにあるか、それどころか、千年後に(枯葉を構成していたそれぞれの原子が)どこにあるのかも、きちんと求めることができる。『時間と自由意志 自由は存在するか』43頁

今この瞬間のデータがあるなら、枯葉が十数秒前にどこにあるか、百秒前にどこにあるか、そして千年前にどこにあるかも、きちんと求めることができる。前掲書46頁

決定論の応答と反論

では、この決定論的世界で分岐問題はどのように取り扱われるだろうか。決定論においては「そもそも歴史は分岐しない」という回答になる。

私たちがいる決定論的な歴史Aにおいて、あらゆる時点の歴史Aの状態は1パターンしかないからだ。

これには反論が二つ考えられる。

「この歴史Aが異なる自然法則に支配されている場合を想定できるが、このことからこの歴史Aの他の在り方(分岐)が考えられるのではないか?」

あるいは、

「われわれは歴史Aのある時点における、異なる状態を無数に想定できるが、このことから歴史Aの他の在り方(分岐)を考えられるのではないか?」

である。

これは先ほどの仮想的世界におきかえると、一つ目の反論は「原子は1秒で1メートル右斜め上に移動する、ではなく、左斜め下に移動する」などという状態を想定することにあたり、二つ目は「時点t2において原子が真ん中ではなく、上に存在する」などという状態を想定することにあたる。

反論のとおり想定は可能だろう。だが、これは単純に歴史Aとは決して交わらない他の歴史を想定しているにすぎない。決定論では、分岐ということがそもそも発生しない。あらゆる時点で発生する出来事が一意で確定しているため、他の可能性が入り込む余地がないのだ。

あなたが今日の昼にそばを食べることは自然法則上確定しており、あなたの食欲も、決断も、そば屋が開店してることも確定しており、食欲がないことも、決断しないこと、も閉店していることもありえない。あなたが現実の結婚相手ではない相性結婚することも、実際に勤務していない会社に勤務していることもだ。

歴史Aでは、自然法則Aが支配し、ある時点においては状態Aとなっている。として、自然法則がAではなくA’であるとするならば、歴史Aが分岐するわけでなく、その歴史は世界創造の当初から歴史A’なのである。

分岐という考えが意味をもつには、ある同一の世界から、それぞれに異なる可能な世界への変化が考えられるのでなければならない。前掲書45頁

可能な他の歴史とは、現実の歴史のある時点(たとえば世界誕生の時点)で選ばれたものではなく、たんにこの歴史とは違う別の歴史なのである。前掲書47頁

つまり、異なる世界を想定した場合、それは世界の分岐ではなく、宇宙史の初めから終わりまで、決して交わらない異なる世界を想定していることになる。一つの世界が分岐することを想定しているわけではない。

図としてまとめると以下のとおりである。

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総括すると、このうち一つの世界――たとえば世界1――が私たちが住む実在する世界とすると、決定論下では他の世界は世界1がとりえる可能性としての世界ではないため、世界1は分岐しない。また、そもそも創造された世界が世界1ではなく、たとえば世界2である可能性はあるが、どちらにしても世界1がとりえる可能性ではなく、世界1の分岐は想定できない。

もし、この歴史のほかに可能な歴史があるとすれば、それは過去において枝分かれした歴史ではなく、この歴史とはまったく別ものとして想定された、独立の単線の歴史である。前掲書46頁

次の記事では非決定論的に考える場合を見ていこう。

※参考文献『時間と自由意志 自由は存在するか」青山拓央 筑摩書房 (2016)

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