ランニング・アウェイ/カラーフィード Running Away / The Colorfield
実家に戻って生活して3カ月ほど経った頃、新聞広告の求人欄を見て広告代理店の面接を受けてみることにした。
全く未知の仕事だったが、応募資格に大卒の記述が無かったので、とにかく受けてみようと思った。
業界のことは全く知らなかったが、名古屋本社でそこそこ大きな中堅どころの代理店だと後から知った。
現地採用なので希望しない限り転勤は無く、H市の駅前に事務所があって始業時間が9:30だった。
普通の会社は9:00だったから朝が遅いのは助かる。
あとで聞いた話だが、採用1名に対して応募してきたのは40人だったらしい。
なぜか俺が採用されてその会社で働くことになった。
最初に言っておくと、一応この会社には20年間勤めた(笑)
東京時代にお世話になったF原さんのお姉さんの彼氏が以前言ったことがあった。
「俺君は広告代理店とかに就職するといいんじゃないかな」
このひとことがなぜかずっと頭の中にあったのでここに決め、1987年の5月21日から働き始めた。
その彼氏曰く「広告代理店はいいよ、お客さんにもテレビ局や新聞社にも、どちらにも『代理ですから』って言えば責任取らなくていいし、許してもらえるから」と言われていたのだが、現実は全く逆で、どちらからもひどく怒られる商売だった。
ええええええええええええ?
話違うじゃん!
ま、俺が未熟だったからか。
当時は帰って来たばかりで、自動車を買うお金がなく、父親のトヨタビスタを借りてCDウォークマンをカセット型のアタッチメントに接続してカセットデッキで聴いていた。
帰郷して最初に買ったCDはカラーフィールドの「ディセプション」だった。
テリー・ホールは2トーンのスペシャルズからファッショナブルなファン・ボーイ・スリーを経てカラーフィールドにたどり着いていた。
夜中にひとりでドライブしながら聴くテリー・ホールの声は哀愁を帯びていてせつなく、80年代のバカ騒ぎと喧騒から逃げ出して内省的になっていく俺の心情にもマッチしていた。
今でもテリーの声を聴くと20代前半のあのころの情景が浮かんでくる。
つらいことや悲しいことが多かった。
そのテリーも逝ってしまったが。
この時期は俺にとってタフな時代だったのだ。
最初のうちは仕事の内容が分からずかなり戸惑ったが、自分なりに一生懸命仕事をした。
F原さんと一緒になるという目的があったから。
一心不乱に仕事して、「早く一人前にならないと」と思っていたが、それがかえって良くなかった。
F原さんが故郷に帰ってきたことは地元でかなり話題になったようで、
「どうやら俺君とは別れたらしい」という誤情報が広まり、
次から次へと地元の男たちから誘いがあった。
何人かからは結婚も申し込まれたりもしたらしい。
それでもなんとか俺がプロポーズするまで待っていてくれて、
結果的に結婚できたが、危ないところだった。
彼女も「本当に俺君なんかと結婚して大丈夫なのか?」と
かなりマリッジブルーになって、諍いもたびたび起こった。
結構大変な思いをさせてしまった時期だった。
それにしてもトンビに油揚げさらわれなくて良かった。
ふぅうぃぃぃぃぃぃ。
会社に勤めて最初の3年間は契約社員で、
4年目に入るときに正社員の登用試験を受けた。
面接で初めて社長に会った。
面接官が「俺君はもう結婚しているんだね」と尋ねるので
「はい、契約社員の身分で早すぎるとは思ったのですが、どうしても好きな女性がいて他の男に取られたくなかったので」と答えた。
社長は大笑いしながら「それじゃ早い方がいいよな」と言ってくれた。
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