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「あばずれ」の美しい先生

彼女に最大限の悪態をつきたくて、どうにか絞り出したのが「この、あばずれめ」という言葉だった。


「あばずれ」は中学3年の時の、担任の先生だった。
美しくて、声が大きくて、よく笑う、生徒たちから人気のある先生だった。

みんな、先生に名前を呼ばれるのを喜んでいたし、
男の子たちが先生をからかい、先生が顔を真っ赤にして照れながら笑ってツッコむ、というコントのような流れに一同がワッと笑うものだから、わたし達の教室からはいつも笑い声が聞こえる、と他クラスの子達が羨ましがった。


先生は、みんなと思い思いの関係性を築いていた。

お母さんとこども、のような睦まじさの子がいた。姉と妹(あるいは弟)、のように親しげな子もいた。友達どうし、のような間柄の子もいた。

そうして先生に、家族の話とか、塾の話とか、好きな人の話とか、友達と喧嘩した話とかをしているようだった。

いいなあと思った。
わたしにも聞いてもらいたい話がいっぱいあった。お母さんでも、姉でも、友達でも、どれでもよかった。だけどわたしは、どうしたら先生とそんな関係になれるのか分からず、そのどれにもなれないままでいた。


秋。みんなでバスに乗り、他県の山奥で連泊をするような、大きな学校行事があった。
わたしはリュックに携帯を忍ばせていた。連絡用として持っているように親に言われ、行事に関わらず普段から持ち歩いているものだった。

だけど、行事の最中、
携帯の持ち込みが先生方に知られ(初日のバス内で一度やり取りをした友人が先に捕まり、先生に履歴を見られた為にわたしも捕まった)、

最終日の早朝、芋づる式に見つかった学年の3割ほどの生徒が広い会場に呼び出された。わたし達は正座をさせられ、学年主任の先生から携帯持ち込みの禁止事項を破ったことに対する(もはや罵倒のような)お叱りを受けた。


その後はクラス毎に担任の先生から話をするよう言われて移動した。わたし達の前に立ちはだかった、あの美しい先生は、眉間に深くしわを寄せていた。
こわい顔、と思った。

ありえないですとか、
がっかりですとか、
先生はそんなことを繰り返した。

叱るじゃなくて罵りだ、と思いながら、わたしは正座のまま黙ってそれを聞いていたのだけど、不意に、周りの子達がぐずぐずとか、すんすんとか、泣き始めた。

ちらりと見れば、母とこどもとか、姉と妹とか、友達どうしとかと、普段から先生と仲の良い子達だった。

だけどわたしは知っていた。
彼女達は、会場に来る直前まで、怒られんの超だるいとか、マジめんどいとか、そんなことを言っていた。


みんなの泣き声を静かに聞いていたら、先生が突然、
「三喜」
と言った。
顔を上げたら、先生と目が合った。
先生とこうして正面から見つめあったのは、ほとんど初めてかもしれないと思った。わたしは、こどもでも、妹でも、友達でもなかったから。

先生はとてもこわい顔のまま聞いた。
「お前、本当に反省してるのか?」

はい、と答えた。
携帯を持つように親に言われている事情はあれど、確かにバス内で友人とやり取りをしたのは不必要だったと思っていた。


だけど平坦なわたしの返事に、反省の色が無いと感じたのか、先生はわたしを睨みつけた。
「泣いてないのは、お前だけだぞ」

先生はこわい顔のまま、涙を流した。
わたしは驚いてしまった。

それから、周りでぐずぐずと泣いている、こどもや、妹や、友達どうしの子達が、わたしのことをチラチラと見ているのを感じて、恥ずかしくなり、悲しくなり、俯いてしまった。


先生の涙について考えた。悔しさなのか、憎しみなのか、怒りなのか、あるいはそのすべてなのかもしれなかった。

隣で泣いている子達の涙について考えた。だって、彼女たちのそれだって、演技かもしれないじゃないか、と思った。

流れることのない自分の涙について考えた。泣いてないと、反省していないということになってしまうことにショックを受けた。


先生は本当には人の気持ちを分かってくれないんだと思った。
だったら、先生に話したかったあれこれも、きっと理解してくれないのかもしれない。

毎日保育園へ妹を迎えに行って夜ご飯を作らないといけないこと、そのために家の事情でと放課後の部活を早退するけれどみんなの視線が痛くて、部内での居心地も悪いこと、高校生の兄ばかり遅い時間まで友人らと過ごして帰ってくること、そんな兄にわたしの作った炒飯がベタベタだと言われたこと、でも夜遅くに帰宅する疲れきった様子の両親には美味しい炒飯の作り方さえも聞けないこと、そういう話を、先生に、聞いてもらいたかったのに。


叱られている間、せめて演技でも涙をこぼせたらと思ったけれど、最後まで涙は出なかった。


行事が終わり、わたし達を乗せたバスは見慣れた校舎に戻ってきた。帰り際に没収されていた携帯を返されて、わたしはすぐに親に連絡をしたけれど、迎えに来たのは自転車に乗った兄だった。

「仕事で忙しいから代わりに行ってって」
と兄が言い、自転車の前かごに重たいリュックを乗せてくれた。2人で歩きながら帰った。一歩、歩くたびに、先生なんか嫌いだ、という思いだけがこみ上げてきた。


それ以来、わたしはとことん先生を嫌ってやった。

先生に名前を呼ばれても、愛想笑いさえしなかった。
男の子たちが先生をからかい、先生がツッコむコントのようなそれにも、わたしは笑わなかった。

むしろ、男の子たちのからかいにまんざらでもないんじゃないかと感じたわたしは、最大限の侮辱の言葉を探して「あばずれ」にたどり着いた。

先生の笑顔を見るたびに、このあばずれめ、と心の中で罵った。ひどい言葉だと分かっていた。罵るたびに、心がくすんでいくのが分かった。


だけど、先生との接触をなるべく避けていたわたしは、卒業文集のクラスページを作る係に任命され、文集が完成するまでの間、頻繁に先生と顔を合わせないといけなくなった。

あの行事以来、先生がこわい顔はすることはなくて、やっぱり美しく、わたしを睨みつけて涙したことなんて忘れているかのように明るかった。

何回かの添削を終え、ようやく完成となった時、先生が言った。


「三喜は、文章を書くのが上手いなあ。将来は作家とかいいんじゃない」

作家。それは幼稚園の時から、憧れていた仕事だった。
だけど、作家は食べていけないからやめなさい、と反対したのは母で、それ以来、誰にも打ち明けず、密かに憧れるに留めていた。


「作家じゃ食べていけないって言うし、わたしには無理です」
と言った。なるべく、冷たく聞こえる声で。

だけど先生は朗らかに笑う。
「無理だなんて、もったいない。向いてると思うよ」


文集を提出し、放課後の部活はやっぱり最後まで参加できずに一度帰り、妹を迎えに保育園まで自転車を走らせる。夕暮れ時の空の下で、わたしは勢いよくペダルを漕ぎながら呟いた。

「勝手に、向いてるとか言いやがって。そうやって、みんなにいい顔してるんだろ。だからお前は、あばずれなんだ」

なるべく、汚い口調で罵った。だけど、そう言いながら、不思議と嬉しい気持ちだった。先生が、やっと、わたしの気持ちを知ってくれたと思った。

ただただ、わたしは先生に心を開きたかった。みんなのように素直になりたかった。そうやって誰かと心を通わせられたらいいなと思って、思ったまま、何も言えずにいた自分を知った。

わたしはもう数週間後には卒業をすることを思った。もう先生には会えなくなるんだと思ったら、初めて涙がこぼれた。

あばずれなんて言って、ごめんなさい、と、わたしは心の中で謝った。先生のあの笑顔を、ずっと覚えていようと思った。

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