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父が危篤のとき、僕はゲームをしていた。

「お父さんが救急車で運ばれたから、お母さん行ってくるね」

動揺を隠し切れない母が、気丈なフリをして病院へ向かった。

家には、姉と僕の二人だけが取り残された。



あれからもう20年近くになるか。当時僕は高校2年生だった。

土木現場で重機の運転手をしていた父が、仕事中に突然呼吸困難となり、救急車で搬送された。後から知った話では、気管支炎だったそうだ。
得てして現場作業員は喫煙者が多く、父もその一人だった。タバコのリスクというものがいかに恐ろしいか、父の危篤を通して僕は思い知った。

これまで大きな事故も病気もなかった父。突然の知らせに姉は号泣した。お父さんが死んじゃったらどうしよう、お父さん死なないで、とひたすら泣きじゃくっている。
父の一大事に姉が慟哭している横で、僕はゲームをしていた。

自分でも不思議だった。仮にも父親が生死の境を彷徨っているというのに、呑気にゲームをしていたのだ。当時ポケモンのダイヤモンド・パールが発売されたばかりではあったが、今はシンオウ地方を冒険している場合ではないはずだ。

姉には軽蔑された。
「お父さんが死ぬかもしれないのに、なにやってんのさ!」と。
無理もない。ぐうの音も出ない。

でも、やけに落ち着いていたのを覚えている。
なにも根拠はないのに、「お父さんは大丈夫」と思っていたし、それしか言わなかった。
なにも根拠はないのに、絶対の自信があった。

結果的に、父は一命をとりとめた。あれ以来、タバコを吸う気がぱったりとなくなったらしく、嫌煙家に寝返った。
十数年後、父は肺炎を患い再び危篤となるのだが、こちらもなんとか乗り越えた。今はピンピンとまではいかないが、安定して生活できている。



僕の性格というか癖みたいなもので、「場の雰囲気を均等に保とうとする」傾向がある。

たとえば、グループ内で話し合いをするとき。
ほかのメンバーが積極的に発言する人ばかりなら、僕は隅っこの方で書記に徹する。
逆に、ほかのメンバーが大人しい人ばかりなら、自分が率先して発言したり、コーディネーター役に回ったりする。

飲み会なんかもそうだ。
ワイワイ盛り上がっている中で、全然会話に入れていない人がいると、その人に話をしたくなる(そもそも乗り気でない人は別)。
逆に、なんだか今一つ盛り上がりに欠ける場合は、がんばって楽しい雰囲気を作ろうとする。できるかどうかは置いといて。

このように、全体の色に対して補色の立場をとろうとしがちなのだ。


今になって思えば、あの冷静さは、姉のためでもあったのかもしれない。

姉が軽いパニック状態だったから、自分は冷静であろうとする。もしも、僕も一緒になって泣いていたら、我が家は凄惨だったろう(もっとも、姉にしてみれば一緒になって泣いてほしかったのかもしれないが)。

我が家の心のバランスを崩さないよう、無意識のうちに冷静さを装着したのかもしれない。


一見すると不可解な言動も、その実は深い理由があったり、大きな意味があったりする。

僕の場合「バランスをとる」タイプだが、「感情をブーストさせる」タイプも「常に明るさを保つ」タイプもいるだろう。

それが正しいか正しくないかはさておき、なぜそうしたのか、なぜそうしようと思ったのかを考えることは、円滑な人間関係を築く上でとても大切なことだと思う。

父が危篤のとき、僕はゲームをしていた。それは「いつもどおりを貫くことで、帰る家を守るため」だと、父ならわかってくれるだろうか。




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