教員を辞めた友人、ひとり海に飛び込むペンギン
学校の教員を11年間続けた友人が、3月で教員を辞めたという。彼と出会ったのは、僕が高校の教室で使ってもらうためのカードゲームを作っていたとき。教員でもありカードゲーム好きでもあるという理由でお手伝いしてくださったのがきっかけだった。あれから2年。彼は教員を辞め、僕は大学に進学し、昨日ニューヨークで再会した。
一人ひとりの生徒に向き合う喜びと責任と難しさを感じた友人は、一昨年1年間休職し、コーチングを学ばれた。昨年現場に戻り、教員を辞め、最終的にコーチングの道に進まれる決断をされた。
僕と違って友人は、ご自身のことをたくさんの言葉を使って語らず、いつも言葉を慎重に選んで話す。昨日も教員を辞めた話を多くは語らなかったが、教員の働き方が友人には合わなかったのだろうと理解した。担任をする生徒と一人ひとり丁寧に向き合いたい友人と、その時間や労力を与えない職員室の空気、自分ひとりの力でどうしようもできない無力感を感じる友人と、その重要性に気づきながら見てみぬふりをする他の教員の顔が浮かんでしまう。こういうときに、僕の余計な想像力が発動してしまうのは残念だ。
昔は僕も、デレク・シヴァ―ズのTEDのプレゼン「社会運動はどうやって起こすか」を見て、誰かが裸で踊りだせばきっと周りもその姿を見て一緒に踊ってくれるだろうと妄想していたが、半分は幻想だったのだと改めて気づく。私達はいつも、個人の意思決定と、集団が生み出す力学の間で生きている。ただ集団の力学にのって行動しながらも、時には個人の意思決定が集団に新しい価値をもたらすこともある。友人の教員としての背中を見た生徒たちや、教員を辞めた友人の背中を見た周りの人たちは、きっと友人からなにかを受け取ったに違いない。
既存の学校教育のフレームワークのなかで、どのように教育を新しくしていくのかを考えるのにはもう飽きた。素晴らしい教育者だった友人も教育現場を離れたことだし、僕もそろそろ学校という存在自体を新しく定義しなおすところからスタートしたい。起こる現実はひとつだが、起こりうる未来像は複数あったって良いのだから。
家族のために獲物を探してひとり海に飛び込むペンギンのように、僕も友人も、過去の居場所に別れを告げ、新しい世界へ飛び込んだ。門出を応援してくれる人はたくさんいるが、門出の先にある険しい道程に寄り添ってくれる人は多くはない。そんななか、お互いのこれからの、険しくも愉しい、刺激に溢れるだろう人生を応援し合う、良い一日になった。
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