習い事。体験して何かを習得することの種類とセンス。



長男の習い事遍歴。
公文、ピアノ、ロボット教室、英語、テニス。


現在は学習塾とテニス、最近始めた工作教室の3つに絞られています。

ピアノ以外は全て本人がやりたいと始めたもの。


次男は外での習い事は工作教室のみです。

二人の習い事の数に差があるのは、
性格や興味の違いから。

次男は、自宅で心ときめくおやつを食べながらお茶を飲みお喋りしたり、

ラブラブタイムを過ごすことがとても大事な様子で
それがメンタルに直結してる感じの
ちょっとティーンの女の子の様な4歳児。

長男より集中力が短く、
しかしながら毎日のルーティンには真面目な方。
字を書くことへの興味は薄い。

迷路が好きなことから、
つい最近読み書きや数に興味を持ち始めたので自宅で私とワークをしています。
場所が変わることは、苦手な様子。


鉄道オタクの長男は、とにかく鉄道について知りたくて学ぶことの
目的意識がとてもはっきりしていました。

興味のないことをやらせても、

周りに言われたりあわせたりしながら「なんとなくやる」ことが本当にできなくて
小学校に入る時はずいぶん心配しました。

集中力はあるけれど、注意力散漫、
ルーティンは苦手(すぐに忘れる)。
うちの外と中で切り替えスイッチがあり、
他人の介入が吉と出るタイプ。
(だから環境をうち以外の場所にしたり、
塾の先生との相性大事)


次男は、興味持ってきたなってあたりで少し楽しく出来る様なものを差し出してみる、の繰り返しなのに対し、

長男は自ら見つけもう突進し
私が後ろから追ってるような感覚です。

長男は興味のないことは放り出して逃走、
次男は一応周りに合わせてその場に留まる。笑


二人とも全然違います。

共通点は目的なしに何かをすること、が二人ともとても苦手。(特に兄はこれが100%)

何をやってもそこそこ楽しくできる、というタイプではないこと。

息子たちにとって今のスタイルが合ってるかどうか正直私にも分からないのですが、

毎日一緒にいて
二人とも楽しそうで
私も楽しく過ごせているので、

特に増やすこともなく減らすこともない状況の今。

自分が選んできた道が正しかったなんて、
今も分からないので

これは絶対やらせるべき、など具体的なことは

特になく

自信を持って舵取りできないのもあるのですが

子供達をよく見て必要そうならちょっと耕して、あとは自由に

野山を手入れする様に子育てしたいと今は考えながら過ごしています。

そのままの山が生き生きと美しく見えたらいいな、
目の前の夢中になれることに精一杯向き合ってみて、さてどうなるかなって。

(夢中になれることに出会えること自体がとてもスペシャル)

のんびりしているねと言われたり、

それが親として冷たく見えることもあるようですが

一人目長男の他を寄せ付けない

「圧倒的マイワールド主義」から

親子ではあるものの

息子には息子の人生がある当たり前のことを
気がつかせてもらいました。

同時に私も私の人生があることも。

親が無理しないっていうのも習い事の数やスケジュールを決めるのに本当に大事だと思っています。

気持ちは伝染するから、巡り巡ってくるなというのがこの10年の感想です。


出来るだけ色々な体験をさせてあげたい親心はあるものの、


「体験」って習い事が、全てではないということに気がつけたことも今の考え方に繋がっているように思います。


長男が小学校に入ったとき。

何かあるといつも息子のシュン、とした顔に気がついてくれる子や

親の私が聞いても素敵だなと思う言葉をかけてくれる子がいて

そのお友達は皆同じ幼稚園だったことがありました。

次男をその幼稚園のプレスクールに1年通わせてみたら、その理由が分かった様な気がしました。

朝登園したら皆広い園庭で学年関係なく元気いっぱい遊んでいて

年長さんが手を差し伸べてあげたり、

喧嘩の仲裁をしていたり、

子供同士で遊びを考えていたり、

道具の交渉をしていたり…

大人が教えてあげられないことがたくさんそこにはあって。


悲しい顔に気がついてあげられるセンス、

みたいなものは一生モノだなと思います。

その根底にはまず人に興味があること、

が必須条件なんじゃないかと思っていて

そうじゃないと他人に目が向けられないんじゃないかと思うんですよね。

好きな作家さんの言葉をお借りするなら

その現場(園庭)は

「人を愛する技術を磨くこと」の始まりなんじゃないかと感じたのでした。

ただ好きなまま気持ちをぶつけていたら

ぶつけたまま終わってしまうことってたくさんある。


愛されたいなら愛しなさいとはよく言われる言葉ですが、

大人になると色々な気持ちが入り混じって難しいこともあります。

でも子供達を見ていて、愛すってまず自分が興味を持つことなんだなと。  

ぶつかった時、うまくいかない時、悲しくなった時…そのままで終わりにしない、楽しく遊ぶためには慮ったり許したり。

時にはまた気持ちを伝えてみたり。

最初から上手くいく訳じゃない。

相手が変われば同じ様にはいかなかったり。

とここまでくると、

あれ?大人になった今も同じなんじゃ?と思えてくる。

だから、子供達のそれらは愛する技術を磨く「始まり」と書きました。

一方的に大人から教えられるだけではなく、

互いに教えたり教えられたりする関係の中で培われていくこと。

生身の現場でどれだけ出くわし知っていけるかということ。


子供なので技術というより、感覚がすごく大きいと思うのですが。

みんなで気がつきあって、助け合って

解決して。

感覚として当たり前に人に興味を持つ。気にかける。悲しい顔に気がつく。

やってみたい!と心が動いた習い事も大事だけれど、

心が柔らかい内にそんな経験や体験がたくさんできたら良いなと思いました。

大人になった時、これやりたい!と思ったらいくらでも出来るわけで(時間やお金の確保はありますが)

自分でやってみる!とそのやりたい気持ちや意識を自分が自分の中に感じ取れる心と

ぽんっと
未知の環境に飛び込める心の下地を作ってあげられたらいいなと思っています。

心の感度って満たされたフラットな心に宿るものの様に思うから。

自分で自分の幸せを感じられることが私の育児の執着地点かな、なんて最近考えていました。

何かに頼る幸せって脆いから、
自分で自分の機嫌を取ったり幸せにする方法をたくさん知っていたいと大人になった今でも思うので。


提案されたものを受動して大人に評価されることを積み重ねる経験の多さより、

自己肯定感も幸せの基準も他人ではなく自分軸になっていくのではないのかな、と。

何をさせるかより、どんな気持ちでさせるのか。

そこが気になって仕方がない。


我が家のボーイズ達の習い事を取り巻くあれこれは、

それなりにうまくやってる風なことを最初に書きましたが


「本当に子供達はこの習い事したいのかな?」


今も考えることがあります。

習い事のスケジュールに支配されるより、
うちでおやつを食べたり、公園で思い切り遊んだり。
イライラしたり焦ったママより私が子供ならそちらの方がいい。

そう思って選択をし過ごしていても、

自ら選び楽しそうに行ってた習い事から怒りながら帰ってきた日。

泣きながら行ってた工作教室から笑顔で帰ってきた日。

やっぱりまだまだ色々な日があります。

揺れる日が今もあって


ゆらゆらしながら

それでも

互いに今日も楽しかったねーって言いながら

一日を終えたいから

目の前の彼らを見つめながら考えてはやってみて、の現実は繰り返し。

正解も安定もありそうでない感じは
もう育児の根底にずっと流れていて
ゆらゆらしています。

でも7割くらい満たされていたらいいかな?と

満点を目指さない様に手綱を緩く、が目標。

こちらの満点が子供達の満点なのかも分からないのだから。


日々成長している証、
歩いているから景色が変わっていくのかなって思いながら過ごしている今日です。

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