不完全だと知ることの意味


慌ただしい年末年始が終わり、数年ぶりに1人で1泊の旅に出た。

目的は会いたい人に会うこと。


帰国中の数年ぶりに会った友人は、さらにきらきらしていた。 

2人とも本当に色々なことがあったねぇ、

最初から最後まで深い話しちゃったね、と

笑いながら別れてから、元気で良かったと少しこみあげるものがあった。


彼女の美しく素直な言葉に、

私は人を傷つけもするけれど喜ばせることもできるのだなとそんな不完全な人間なんだと知ることができた。


気が使えない、成果が足りない、配慮が足りない、言葉が足りない。

評価ばかりの世界の中で

両方が自分なんだよって受け止められたら。

自分も他人も許すことができると思った。

他人の評価と自分が自分に思うこと、は別々で良いはずなのに他人の評価に完全に目を瞑ることはできない。

言葉にして伝えてくれる友人や家族がいるから

こそわかることがたくさんある。

自分を許しながらも、それでも私は人の中で生活しているから傷つけることより喜ばせることがたくさんあると良いなと思う。


傷つけてごめんなさい。

嬉しかったよ、ありがとう。

そう言葉を交わせる関係を大事にしよう。


そんな関係性を築けるほど時間がなかったり、厚い壁があったり、シャッターが早々にしまってしまったり大人はなかなかこれが難しいからこそ…なんて考えていたけれど


子供を見ていても、なかなか謝れなかったり

喜んでいても自己表現が苦手だったり、

色々な子がいる。


そこに経験がプラスされて複雑になっていくのは間違いないのだけれど、そういう元々持っているものの相性みたいなものもある。

改めて素直にごめんなさいとありがとうを交わせる関係は大事にしたいなと思いながら、相手の個性に執着しすぎないことも大事にしたいと思った。


もう一つ、たぶんそういう時期が人生にあると思えるようになってきたことがある。

友人とも話したのだけれど、女は人生の枝分かれが激しく、故に会う時々のタイミングで全然関係性が変わってしまうことがある。

そして戸惑う。

自分もそう相手に思わせてるかもしれないね、なんて笑いながら話した。


悲観な訳ではなくて、その時々で素直に言葉をかわし会えた過去にも執着しすぎないことを大事にしたいと思う。

手綱緩めに軽やかに行きたい。

きっとまた、ご縁があれば笑って話せる日が来るから。

絶えず流れながら、人生は進んでいるようだ。

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