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母親に、私の娘を連れ去られる夢を見た

母親に、私の娘を連れ去られる夢を見た。

ちょっと連れていくね、という言葉すらあったのか、なかったのか思い出せないくらいに、自然に娘の腕をひいて、店から連れて行った。

私は用事を済ませ、外に出て娘の名前を呼んで辺り一面を探し回るも、娘は見当たらなかった。失望しながらも、本屋やショッピングモールで娘を探し回った。

だけど、娘は見つからなかった。

母に、私の娘を会わせていないことへの後悔か、抱かなくても良い改悛なのか。

娘には、断片的に私の子どもの頃の話をしている。母方の祖母に会えないことに、疑問や「どうして」と無邪気な質問もしてこない。

「友達の良いところを書きましょう」。私のカードには誰も良いところを書いてくれなかった。

小学校を3回転校して、友だちもできなかった。自分の持ち物には、いつ転校するかわからないから、学校名のところや、住所は空欄にしていた。

小3の時に転校した学校には、あまり馴染めなかった。

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小4の時の家族写真。母の浮かない表情が気になります。

小4の時、「友達の良いところを紙に書きましょう」という授業があった。机の上に真っ白な紙を置いて、同級生の良いところをそれぞれみんな紙に書くと言う内容だった。生徒たちは、机の上に置かれた紙にメッセージを書いて回った。

当然、人気のある子の紙には、「楽しい」「かっこいい」「面白い」というような言葉がぎっしりと書かれていた。それが、各人の1年間の制作物を集めた冊子の1枚になった。

私の良いところは、誰からも書いて貰えなかった。ずっと誰も書いてくれない紙を置いてある机を、私は見つめていた。誰かの紙に書いたら、お返事で書いてもらえるかなと思ったけれど、誰も書いてくれなかった。

最後にお情けで、クラスメイトのある女の子が「優しい」と書いてくれた。その1つだけだった。優しいのは私ではなく、その女の子だ。

残酷とは、酷いが残ると書く。私のことが好きだと思う生徒がいなかったのだ。これは残酷ではなく、事実がありのままに紙に映し出されたのだ。子どもの方が「ありのままに」なのだ。嫌いなものは嫌い。そう事実が突き付けられた。

娘は、私が語る小学校時代の話を聞いて、悲しい顔をする。そして「一緒の小学校だったらよかったのにね」と言う。

ある時、帰りの電車の中で「ママが小さくなったら、同じ小学校に通えばいいよ。〇〇小は楽しいよ。友達もいっぱいできるよ」と言った。私は泣きそうになった。(やっと、私の良いところを見つけてくれて、友だちになってくれる子と出会えた)。

家出娘だった母は、また家出して出て行った

でも、時折、娘がいなくなってしまう夢を見る。

「娘がいなくなったら…」なんて、潜在意識の中で強く心配しているのかもしれない。自分と母の仲を思い出し、精神が脅かされているのだ。私と母の仲は、飛んで行った風船のようにもう元に戻ることもない。

私の母と、娘と私は同じようになりたくない。

どこかで、私の母が現れたら今の生活が崩れ去ってしまうように感じている。

母は、私が高校3年くらいから、家にいる時間が少なくなった。最初は土日のいずれか。気づいたら平日も。週末はいなくなって週の頭に帰ってくる。

今思えば、携帯もまだない時代に、どこに行ったのかわからない母を、「そのうち帰ってくるのだろう」と、それが日常の一つの出来事として受け止めていた。私も父も当たり前のように月曜日が来たら、それぞれ会社に行き、学校に行き、普段通りに過ごしていた。

気づいたら、母が家にいる時間といない時間が反転し、ほとんど帰ってこなくなった。タンスも押し入れの荷物も何もかもすべて置いて、その当時の恋人が母にプレゼントしたヴィトンのボストンバッグ一つで出て行った。

ドラマや映画で観た「出て行ってやる」なんて、ドラマティックなものではない。家族なんて、一人の一存で勝手に他人になれるわけではない。気づいたら、いない時間が増え、帰ってこなくなっただけだ。

だから、母が何かがきっかけで出て行ったとか、あの日出て行ったとかそういう記憶はない。母は仙台で一緒に暮らしていた私の家庭教師だった大学生とは別れ、今度は新しい10歳以上年下の男性のところに行ってしまった。

その後、母が祖母の介護で帰っていた金沢で知り合ったスウェーデン人を関東まで引き寄せ、一緒に暮らしていたことや、父が危篤になった時に、父の独居に鍵屋を呼んで鍵を破壊し、金品を持ち出したことは、また別の話。

これだけのエピソードだと、「作り話だろ」と言われても仕方ない。

信じるも信じないも、あなた次第。でもこれが本当に他人の出来事だったり、少しだけかわいそうなふりをして、周りの人の注目を弾くための作り話だったら、人生楽ゲーなのですけれどね。最近、にわかに使われ始めた親ガチャ。最強のを、私は引きました。

娘にとっては祖母だけれど、私にとってはつらい思い出

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娘が1歳くらいの時。一緒にお出かけした写真。

娘には、そんな私と母との出来事を、まだ全部は伝えていない。
娘に、私の母と会わせない後悔。いつだって、それは頭によぎる。

母と私の関係を今まで周りに隠していたのは、話すことで「毒親育ちはまた、子どもを不幸にする。負の連鎖を起こす」という、レッテルを貼られるのではないかと危惧していたから。

娘との時間は、私にとっての幸福だ。

毎朝、娘を校門まで見送った後、学校の外から 校庭を歩いている娘を見ていると、必ずふり返って 映画の『(ハル)』で観た深津絵里のような 大きな動作で、娘が手を振ってくれる。これが私の日常。

いつだって笑っている娘が好きだ。

「小学校が大好き」という娘。私と娘は、私と母のようにはならない。
だって娘は私とは違い、周りの環境にも恵まれて育っているから。

今日の一曲

母の実家の金沢に行った時に、よく聞いていた曲。アンジーの『幸福』。

「泣きながら家を出るのは 追い込まれた時じゃなくて 恵まれた今しかないんだ」

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