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クロスボール#7

前回のあらすじ…
父から部活をやめて塾に通うように言われプールに逃げ込んだケイシ。その帰り道、久しぶりにハルトの練習相手をすることになる。幼い頃、ハルトの初ゴールは、ケイシのクロスボールから生まれた。それまでは、ずっとケイシがエースだったはずなのに、今では、アシストを上げる場所にすら立てなくなっている自分に気づいたケイシだったが…

《目次》
第1話 ヒーロー
第2話 無謀な戦い
第3話 胸焼け
第4話 オレンジジュース
第5話 背中
第6話 猫のようなやつ

第7話 苛立ち


「どんどん食べてね。遠慮はいらないから」

 その言葉通り、ハルトはもうカレーを3杯たいらげている。母はそんなハルトの顔を見て、ほほ笑んでいた。

「もう十分だろう。何杯食べるんだよ。行くぞ」

 ハルトが家へ来るのは久しぶりだ。避けていたわけではない。ハルトも、そして自分も忙しかったからだ、とケイシは心の中で呟いていた。3杯目をつごうとした母親を止め、ハルトを2階へ連れ出した。

 もうすぐ受験生になるのだという自覚はケイシにもある。ケイシは、一瞬迷ったが、漫画ではなく、宿題の出た数学の教科書を手に取った。するとハルトも、面倒くさそうにカバンから教科書を取り出した。

「で、ここは?」

「あれ、こうじゃねーの?」

 ハルトは頭を抱え、1時間もしないうちにベッドに寝そべって漫画に夢中になっていた。

「ケイシ、ちょっと」

 母の声がして、ケイシは1階に降りていった。

「夜食に」

 ハルトが来たことが、とても嬉しかったのだろう。母は、いつも以上にはりきっていた。スープのいい匂いがする。ふと、外を見ると、診療所にはまだ明かりが灯っている。

「なぁ、親父、まだ仕事してるの?」

「そうみたいよ。イグアナの調子が良くないんだって」

「そう」

「早く持って行きなさい。冷えちゃうでしょ」

「分かったよ」

 ケイシは、2階には上がらず、そっと診療所を覗き込んだ。椅子に座る父はケイシには気づかない。真剣な父の背中は、あの頃と同じだ。
 
 幼いころに、小さな子猫が運び込まれたことがある。首輪をしたその猫は、やせ細り、とても怯えて震えていた。その小さな子猫の目を、時々思い出す。幼かったケイシが一目見て、助からないことが分かるくらい、その子猫はひどく衰弱していた。

「きっと、飼い主に捨てられて、ここらに迷い込んだのでしょう。……可哀そうに。こんなに痩せてしまって。どうにかなりませんか?」

 通りすがりに子猫を見つけた男性は、涙を流しながらすがりついていた。父は、あずからせていただきます、とだけ言って頭を下げた。

 その日から、父は3日間付きっきりで看病した。朝も夜も、ずっとその猫に寄り添い、ごめんな、ごめんな、と声をかけ続けていた。息を引き取った後、涙を流す父がいた。男性も子猫の死を聞きつけて飛んできた。何度も、何度も父に感謝の言葉を添えて泣いていた。

「あ……」

 ケイシは夜食が冷めはじめたことに気がついて、急いで2階に上がった。

「ハルト、お前、まだ食べれるか?」

 ドアを閉め、振り返るとハルトはケイシのベッドですやすやと眠っている。まるで自分の家みたいに、枕に顔を埋めていた。

「おい、ここは俺の家だぞ」

 ハルトの寝顔は、幼かったころと変わっていない。

「まったく、お前は、自由でいいな」

 ハルトには、母親がいなかった。父親は仕事が忙しく、1人で過ごすことが多かったハルトは、たまにこうしてうちに上がり込んだと思えば、爆睡して帰って行く。
 ハルトは、そのまま1時間も眠り続けた。夜の12時を回ったころ、ハルトの父親が仕事帰りに迎えにやってきた。

「どうもすみません」

 ハルトの父親が何度も頭を下げる。ハルトはどことなく父親に似ている。大きな手や、きりっとした眉、細身の体から力強さがにじみ出ていた。ハルトの父親は、建築関係の仕事をしていて夜遅くなることも多く、昔はよくうちでこうやって迎えがくるまで一緒に過ごしていた。

「いいんですよ。もうハルト君はうちの息子同然ですから」

 ハルトは寝むたそうに、靴を履く。

「ほら、挨拶しろ」

 その声に、下げたのか下げてないのか分からないほど小さく会釈した。

「何だ、その挨拶は。やり直せ」

 ハルトは、また下げたのか下げてないのか分からない会釈をして出ていった。

「申し訳ない」

「いいんですよ。また遊びに来てくださいね」

「すみません。それでは失礼します」

 ハルトは父親の前だと、少しだけ大人しい。ハルトの性格は、この強烈な父親のせいなのかもしれない。

「なぜ泣いている?泣いている暇なんてないはずだ。そんな時間があるなら、その時間を練習にあてろ。お前が泣いている間に、どれだけ多くの人間が努力していると思っているんだ」

 試合に負けて泣いていたハルトに向かって、父親が言った言葉だ。泣き虫だったハルトは、この頃からあまり涙を見せなくなった。

 ハルトの父親は、決してハルトをほめたりしない。県大会ベスト4が決まった試合も、もちろん見には来なかった。活躍したハルトを周りがちやほやする中でこの父親だけは、ここで負けて悔しいと思わないのならサッカーを辞めろ、とだけ言っていた。ハルトは、その日からベスト4の話をあまりしなくなった。

「あぁ、今日も負けたな」

 練習試合は、完敗だった。これで3試合勝ちなしだ。ケイシは途中からではあるが、何度か練習試合に出場する機会が与えられていた。しかし、ポジションも定まらず、なんだか不安定な起用に留まっていた。それはダイチも同じで、新人戦はまた観客席なのかと不安になっていた。

「なぁ、これからどうする?」

「そうだな、腹減った。食べにいこうぜ」

 負けた試合のことなど考えるよりも、ケイシはコロッケのことで頭が一杯だった。

「なぁ、ハルトもいかないか?」

 ケイシの誘いに、ハルトは何も答えず、すぐにグランドを後にした。

「あいつ、どうしたの?」

「さぁ?ほら、行こうぜ」

 ハルトはこの頃、少し様子が変だ。

「おじさん、コロッケ2つ」

 コロッケ屋のおじさんは、顔色一つ変えることなく、無愛想なまま、すぐにコロッケを手渡した。

「なんだよ。急に冷たくなりやがって」

 ケイシは、小声で呟いた。商店街では、サッカー部だということで声をかけてくる人も少なくなった。あの時の話題は、あっという間にケイシの前を駆け抜けていった。

「なんか、勝てる気が、全然しないんだけど」

 ダイチがコロッケを頬張りながら言った。

「そうだなぁ」

 試合は、初歩的なパスミスを何度も起こし、中盤で何度もボールを奪われ、劣勢になることが多くなった。高さを生かした攻撃も少なくなり、ハルトのゴールも見られなくなっていった。

「まぁ、俺らが目指すのは、まずはベンチ入りだな」

 ダイチが言う通り、ベンチ入りさえ出来れば、それでいい。ケイシもなんだかそれでいいような気がしていた。

 次の日、グラウンドにハルトの怒鳴り声が響いた。

「おい!どこ見て蹴ってるんだよ!」

「悪い」

 後方から蹴られたボールは、コートを大きくそれて転がって行く。ハルトは、もう一度やり直せ、と怒鳴り散らしていた。

 しばらくすると、坂田が紅白戦を始めると言った。ケイシもダイチも、サブメンバーでゼッケンを渡される。

「やっぱり俺らは、こっちだよな」

「ほら、さっさとやるぞ」

 ユウマは、不満そうな顔をするダイチの背中を軽く叩いて、真っ先に走って行った。ユウマは、まだハルトにポジションを奪われたままだが、最近ではポジションを変更しながらレギュラー組でプレーすることもあった。

「ユウマはいいなぁ」

 ゼッケンを着ていないユウマを見て、ダイチが呟く。

「始め!」

 坂田の声で、ゲームが始まった。ボールは、前線へと繋がる前に、パスが乱れて奪われていた。

「おい!ちゃんとしろよ!」

 また、ハルトの怒鳴り声がした。

 周りの期待も少しずつ減っているように感じている。ハルトを応援する女子の数も、前より少し減ったような気がした。去年が良すぎたのよとか、まぐれだったんだろとか、応援の声はいつしか失望の声へと変わっていった。

「何やってるんだよ!」

 ハルトは試合中以外でも、強い口調で怒鳴り散らすことが多くなっていた。

「なぁ、また負けたんだって?ハルトがいてなんで勝てないんだ?」

 サッカー部ではない生徒は、どこかこの不調を喜んでいるようだった。ハルトのことを面白くないと思っているヤツは、結構いたんだということにケイシは驚いていた。ハルトはそんな声にも何も言わず、ただ口を紡いでいた。坂田も、いくら負けが続いても、黙って練習しろとしか言わない。

「あいたたた」

「どうしたんだよ」

 ケイシはわき腹を抑えていた。この頃の坂田の練習メニューのせいで、体は悲鳴をあげていた。痛いのはわき腹だけではない。全身が筋肉痛だった。

「階段どれだけ昇らせるんだよ」

「今日も、終わりの見えないランニングあるかなぁ」

 一番の恐怖は、走る時間も距離も分からない、坂田の気まぐれなランニングのトレーニングだ。スタミナのないダイチは、それを一番嫌っていた。

「おい、どこいくんだよ。部室あっちだぞ」

 前を歩くハルトは、休むとだけ言って帰っていく。この頃ハルトは、こうして時々部活を休むことが多くなっていた。

「あいつ、本当にどうしちゃったの?」

「わからねぇ」

 ハルトの様子は、明らかに変だ。練習中も、ハルトらしくないミスを出すことが増えていた。何があったのかを聞いても、ハルトは答えようとしない。

「ほっとこうぜ」

 ケイシは、ハルトのことが分からなくなっていた。


「もう、ハルト先輩とはやっていけません」

 1年生が、そう言い始めたのは、新人戦まで2カ月を切った頃だった。

「どうしたの?」

 ユウマは、歯切れの悪い返事をした。後輩に目をやると、次々と不満の声をあげていく。

「僕らが下手くそなのは、分かります。だけど、あんな言い方……」

「確かになぁ」

 ケイシも、この頃のハルトの様子はどこか気がかりだった。

「何で、そこで俺にパスしないんだよ!どうせお前のシュートじゃ入らねぇよ!」

 ハルトの怒鳴り声で、1年生は皆、恐怖で固まっていた。

「すみません」

 ハルトの苛立ちを敏感に察知してしまい、大事なところでミスを連発する。

「まぁまぁ。そんなに怒らなくても。もう一回やろ」

 ケイシが間に入っても、ハルトは機嫌を直すことなく、ふてくされてグラウンドを去っていった。今思えば、ハルトを上手く使っていたのは、先輩達の方なのかもしれない。

「実は、前から結構、ハルトに対して不満が出ていたんだ」

 ユウマが、珍しくため息をついた。

「俺からも、何度かハルトに話したんだけど……」

 責任感の強いユウマは、自分を責めているようだった。

「あいつ、この頃変だからなぁ」

 何かに焦っているような、そんなハルトの姿はあまり見たことがなかった。

第8話 恋

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