見出し画像

チャーリー・カウフマン スピーチ Part 1. 無知を自覚すること

『マルコヴィッチの穴』『エターナル・サンシャイン』などの脚本を執筆し、『脳内ニューヨーク』では脚本だけでなく監督もこなしたチャーリー・カウフマンが、2011年に英国映画テレビ芸術アカデミー(BAFTA)主催による脚本家の講演シリーズでスピーチを行いました。そのスピーチ全文を少しずつですが翻訳して、定期的にnoteに掲載していきます。翻訳の元にしたスピーチのテキストおよび映像の権利元のBAFTAからは許諾を得ています。それでは、スピーチをどうぞ。

チャーリー・カウフマン:ありがとうございます。この場に立てて大変うれしく思います。と、せめてもの救いとして自分自身に言い聞かせています。実は、今まで私はスピーチをしたことがありません。今晩、このスピーチをすることにした理由はそこにあります。どうすべきか分からないことをやりたかったのです。私がしくじる姿を皆さんに見てもらいたかったのです。それこそが、芸術が示すべきものだと思うからです。このスピーチは、私たちに共通する人間性と人としての脆さを認識できる機会だと思います。

ですので、私が何かの専門家のふりをしてこの場に立ったり、妙にお手本のような形式張ったスピーチをしようと振る舞ったりはしません。まずは、私は何も知らないということを言いたいと思います。もし私の執筆に特徴が1つあるとすれば、自分は何も知らないということを自覚してから執筆を始めることであり、作業中はそのことを忘れないように取り組んでいます。私たちは不安を感じるが故に、何かの専門家でいようとしていると思います。私たちは自分のことをバカだとも、価値がないとも思いたくありません。そして、力を求めてしまうのです。力があれば大いに自分を誤魔化せられるからです。

私は自分の事を作家や脚本家と呼ぶことに違和感があります。やむを得ない時はそうします。例えば所得税の申告書に職業を書く時です。それは理屈から言っても間違いではありませんが、ウソをついているように思うのです。生活のために脚本を書いていますが、それは私ではありません。若い頃はその肩書きを名乗りたかったです。何かすごい人物になりたかったです。私にとって、それは作家でした。昔の映画に『セルピコ』という映画があります。その映画でアル・パチーノが演じる主人公はアーティストの彼女がいる警官で、色々なタイプの芸術家が集まったパーティーに参加しているシーンがあります。そこに集まった仲間が次々と「私は画家ですが、レストランで働いてます。」「私は俳優ですが、会社勤めをしています。」と話し、しばらくそれが続きます。そしてアル・パチーノに順番が巡り、「私は警官で、警察署で働いています」と言うのです。このシーンでは、各キャラは自分が価値のある人間だと言いたい。でも、それを裏付けるものがないために、不安を感じています。なぜなら、誰もが自分は作家だと言ったり、こんなことをしている、あんなことをしていると自分の思いを話したりしている一方で、他の人のことを「あんなことを言って馬鹿じゃないのか」と思っているからです。面白いですよね。今は自分のことを作家と呼びたくはありませんが、当時はそう呼んでいたんですよ。当時はそうすることが必要だったのでしょう。でも今はそうする必要はないと思っています。自分はそういった人間ではないとわかったからです。

私は、今ここでスピーチをしているひとりの人間であり、そのスピーチに苦しんでいます。確か、トーマス・マンの言葉に「作家というのは人一倍執筆に苦しむ人間である」というのがあるのですが、この言葉をクールだと私は思っていました。この言葉の意味は、真剣に物事に取り組むとそこには苦しみがある、ということではないかと思います。面白いことに、私は長い間このスピーチのことで苦しんでいました。何か月も前からこのスピーチのことを周囲の人に話していて、このスピーチがある意味、自分の仕事になっていたのです。ただ、自分の机に向かっても私は何をすればいいのか思い浮かびませんでした。

それは仕事で脚本を執筆する時にとてもよく似ています。真摯に取り組んで、みんなの役に立つことをしたいと思っていました。ただ、厄介なのが、それが何なのかを見つけづらいことに加えて、みんなに私のことを気に入ってもらいたい気持ちとの葛藤もあったのです。つい想像してしまうのですが、私がこの会場を後にすると、ここかしこから「すばらしいスピーチだった!」という声が聞こえるのです。さらに「彼は作家として最高なうえに、今夜はいいことを教えてくれたよ。あのスピーチには本当に熱が入ってた!」と聞こえてくるのです。こんな浅はかな自分がいる一方で、必死でその想像上の出来事を頭から押しのけようとしている自分もいます。そうしないと、スピーチをしている時に意識し過ぎてしまいそうだからです。

また、難しいことですが、だれもここに上がって、失敗はしたくはありません。それは悪夢のようなことです。ここに来るまで私は何度も悪夢にうなされてきました。皆さんが面白い話を聞きたい気持ちもわかります。なので、私があえて面白い話をせずに、真面目な話をするのは馬鹿げたことです。そこには駆け引きがあって、私の中に葛藤が生まれるのです。その葛藤こそが、現実の生活で人が意識を持って行動する上で、特に重要なことになります。それは、現実の人間だけではなく、映画の中のキャラクターにも当てはまります。

いずれにしても、今晩のスピーチの内容をいろいろと検討しました。中には、クレイジーなアイディアもありました。そう、演劇をするというのがあったのです。それをトリシア(イベント・プロデューサー)がスタッフに言いふらすと、スタッフはみんな楽しみにしてしまいました。私はトリシアに気に入ってもらいたいがために、「まずい! 演劇をやらなくちゃ」と思ったものです。ですが、結局、ここに上がって、歌ったり踊ったりはせずに、真面目に話すことに決めました。ただ、何を話すかはあえて決めませんでした。メモは作ってきましたが、漠然としたものなので不安感がものすごく高まっています。ここにメモを置いていますが、正直、このスピーチが5分で終わるのか、3時間かかってしまうのかわかりません。事前に時間を計って来ていません。なので、知る術もないのです。

ですが、これが私の仕事のやり方なのです。君たちには執筆作業に関して一旦立ち止まる必要があると思います。これまで話してきたことでスピーチを始めたのは、君たちに立ち止まってもらうためです。この講演についての脚本を私が書くとすると、時間をかけて、このスピーチや、講演者と聴衆の気持ちについて考えたり、このスピーチが観客にとってどんな意味があるのか考えたと思います。また、観客は、集合体であることからグループとしての側面と一人一人の個人が集まったものとしての側面があるので、その2つの側面の意味で聴衆について考えたと思います。そのことについては後で触れたいと思います。そのことでメモも書いてきましたからね。

それに、もう1つ、ここまでの内容で話を始めることで、スピーチをうまくやり遂げる自信につながると思ったからなのです。そうすることで、ここに上がることができましたし、緊張が抑えられています。このことから君たちに知って欲しいのは、どんな方法でもいいので自分に出来る方法で自分を解き放つことです。そうすれば、自分の作品に取り組んでいけるのです。

 Part2に続く

スピーチ原文および映像の著作権はBAFTAに帰属しています。

スピーチ原文の全文

スピーチの映像は以下から見れます。ただし、編集されていて、この映像用のインタビューがスピーチの合間に差し込まれてきます。

#映画 #チャーリーカウフマン #コンテンツ会議 #脚本 #スピーチ #マルコヴィッチの穴 #脳内ニューヨーク #エターナルサンシャイン #作家

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?