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『神隠しの庭で、珈琲を』 第一話:サンクチュアリは嵐の先に #創作大賞2024


あらすじ
 森の奥深く、白狐が案内する先に、永遠の春の世界である常世とこよは存在する。常世の入口には、常世に迷い込んだ人のための、常庭とこにわという宿がある。常庭で働く瀬名朝来せなあさきは、現世うつしよでの記憶を失い、常世に迷い込んだ過去を持つ。難病を抱える音楽家や、教え子を第二次世界大戦で亡くした教師、地震の被害を脳内でシミュレートできる小学生など、様々な時代を生きる人々が、常庭を訪れる。「お客様」との交流を通して、朝来は少しずつ記憶を取り戻していく。朝来が常庭に来た理由とは。そして、嵐の夜に扉を叩いた人物とは。

 森の神である老婦人は、迷い人たちに寄り添う。
「あなたの話を聞かせてちょうだい」
 耳を傾けることから始まる物語。連作短編集。

300文字(ルビ除外)


第一話:サンクチュアリは嵐の先に

 この闇の先には、本当に光があるのだろうか。容赦なく降る雨は止み、夜は明けるのだろうか。
『いつまで、このまま夜間飛行を続ければいい?』
 小さな子供のような顔をして、今にも泣きだしそうな彼の、震える肩に触れた。
『闇が最も深くなるのは、夜が明けるほんの少し前のことよ』

 瀬名朝来せなあさきは、温かいベッドの中で、夢を見ていた。いつもと同じ、真冬の雪嵐の夢だ。風がごうごうと鳴り、朝来の行く手を阻もうとする。子供であれば、体ごと吹き飛ばされそうな強さの風が、体全体に刺さるようだ。分厚いダウンジャケットと、スノーブーツ、皮の手袋を身に着けても、指先や足先が痛いほどに冷たい。顔の前で両手を交差して、殴りつける風を避けながら、吹き溜まった雪に足を取られないように、吹雪の中をゆっくりと進んでいく。腰まである朝来の黒髪が、風に巻き上げられて乱れる。
 朝来の二、三歩先を、一匹の狐が歩いていく。雪と見紛うほどに白くて、ふかふかと柔らかそうな、上等な毛並みの狐だ。狐の尾は三本ある。不思議なことに、三本の尾は、猛烈な横殴りの風に吹かれているにも関わらず、風などないように、悠々と上を向いている。
 狐は、時折立ち止まって座ると、朝来を振り返った。光を宿し、意志を持った金色の二つの瞳が、「ついて来い」と訴えている。朝来は頷いて、嵐の中を進んでいく。
 朝来は、身長の三分の二以上もある、大きな荷物を背負っている。何を背負っているのか、夢の中では思い出せない。思い出せないのは、荷物のことばかりではない。今までどこでどうやって生きてきたのか、そもそもなぜ雪嵐の中にいるのか、そして自分の名前さえも、今はわからない。記憶は、雪嵐の中に閉ざされている。一切の記憶を失ったまま、朝来は雪嵐の中を進む。
 どれくらい歩いたのだろう。嵐が止んだ。閉じた瞼に、温かさを感じる。顔の前で交差していた手を解き、朝来はゆっくりと目を開けた。
 春の野原が、眼前に広がっていた。足元を見ると、あの白狐が、座ったまま朝来を見上げている。白狐は、微笑んでいるようにも見えた。
 太陽が、風が、草木の匂いが、生きとし生けるものが、朝来の到着を祝福しているようだった。
 周囲をぐるりと深い森に囲まれている野原の中央には、石造りの壁の古い洋館と、その庭に生えた、桜の老木があった。洋館の壁は、深い緑の蔦に覆われていて、玄関の木の扉の周囲には、朱色と白のつるばらが這っている。
 屋敷の扉が開き、誰かがゆっくりと歩いてくる。
『ようこそ、常庭へ!』

 朝来は、屋根裏部屋で目を覚ました。また、初めてこの場所に来た時の夢を見ていた。何度も何度も、同じ夢を見る。今、自分が、安全で居心地のいい、いつもの屋根裏部屋にいることを確かめると、太陽の匂いがする清潔なシーツの上で、両手両足を伸ばした。起き上がると、ベッドと壁の間に置かれた、大きな荷物が目に入る。チェロケースだ。そうだ、夢の中で背負っていた大きな荷物は、チェロだったのだと腑に落ちた。いつもの夢とセットになった、いつもの感覚だった。
 屋根裏部屋には天窓がある。天窓から差し込んでくる朝日を、閉じた瞼で受けた。今日は、雲一つない快晴だ。慈愛に満ちた太陽の光が、瞼を温めてくれるこの感覚を、朝来はとても気に入っている。
 階下から、朝食の支度をする音が聞こえる。毎朝のこのとんとんという音は、いつも朝来の全てを安心させる。頭の後ろにまわした右腕の肘を、左手で引っ張り、ぐうっと伸びをした。ベッドから降りると、紺色のチェックのパジャマを脱ぎ、コットン素材の白シャツと、同じくコットンの紺色のテーパードパンツに着替える。これが、朝来の「制服」だ。鏡を見ながら、腰まである長い黒髪を、襟足で一本に結んだ。化粧はしない。
 ぎしぎしと音が鳴る木の階段を下ると、朝食の匂いに誘われ、お腹が鳴った。台所に目を遣ると、いつものように、親愛なる老婦人の背中が見える。
「おはようございます! いい匂いですね!」
 朝来は、とびきりの笑顔でフライパンを覗き込んだ。朝来の笑顔は、野の花が微笑みながら咲くようで、名前の通り朝によく似合う。目玉焼きが二個、フライパンの上でジリジリと焼けている。
 朝来が声をかけた優しいその人が、振り向く。
「おはよう、朝来ちゃん」
 フサヱさんは、皺だらけの顔で笑った。顎の辺りで切りそろえられた、ライトグレーの髪が、ふわりと揺れた。丸眼鏡の奥の灰色の瞳が、優しい朝の光を映して、朝来を見つめている。フサヱさんは、白地に赤い小花柄のAラインのワンピースを纏っている。ぱりっとアイロンが効いたこのワンピースは、フサヱさんがミシンを踏んで縫い上げたものだ。
「私、パンを切りますね」
 朝来は、目玉焼きを焼くフサヱさんの横に立ち、山形食パンに包丁を入れた。ふんわりと、小麦とバターの香りがして、たちまち幸せな気分になる。目玉焼きの隣のコンロにフライパンを置き、厚切りにした食パンの両面を香ばしくトーストする。食パンは、屋敷の裏口にある窯で、フサヱさんが焼いている。パンの発酵には、秘伝の天然酵母が使われているそうだ。
 トーストを白い大皿に置くと、皿の余白に、フサヱさんが、焼き立てのベーコンと目玉焼き、それから菜の花のバター炒めを盛り付けていく。皿に乗っても、目玉焼きの白身はまだジリジリと爆ぜている。目玉焼きの輪郭が、香ばしそうに焦げている。菜の花からは、バターの匂いがする湯気が立ち上っている。幸せな香りに包まれた二人は、顔を見合わせて微笑んだ。
「朝来ちゃん、せっかくだから、外で食べない? すごくいい天気なんだもの、日光を浴びなくちゃ!」
「賛成です!」
 玄関の木の扉を開けると、春の匂いに心が躍った。屋敷の庭には、大きな桜の老木が立っている。桜は、その老体の枝に、こぼれんばかりに花を咲かせて、春風にそよいでいる。いつも見る夢に出てくるのは、この桜だ。桜の根元には、杉の一枚板で作ったテーブルと、よく磨かれた、暗褐色の木の椅子が四脚ある。桜の老木に見惚れていると、風に乗った花びらがひとひら、艶やかに光る真っ白な皿の端に乗った。そのままでいい。朝来は微笑んで、皿をテーブルに並べる。
 ここは、現世うつしよと対をなす世界である、常世とこよの入口、「常庭とこにわ」だ。常庭を囲む深い森は、現世と常世を隔てる結界で、森の神であるフサヱさんが、その結界を統御している。森が閉じている間は、現世と常世の間に人の往来はない。
 いつからだろう。朝来は、現世を離れ、ここ常庭で暮らしている。どうして常世に辿り着いたのか、現世で何があったのかを思いだそうとしても、記憶はいつも雪嵐の中に閉ざされていて、触れることができない。
 視線を足元に移すと、エンゴサクやニリンソウ、カタクリ、色とりどりのスミレ、エンレイソウなどの、春に咲く山野草が、花芽を綻ばせている。
 常世は、永遠の春の世界だ。桜の花が終わることはない。植物たちは、永遠に咲き誇り、鳥たちは、春の歌を歌い続ける。
 朝来は、空中を舞う桜の花びらに手を伸ばした。指の間の薄い皮膚が陽に透けて、紅く輝いている。
雪夏せつかはどこに?」
「あの子、今朝早く出かけて行ったわ」
「それじゃあ、今日、常庭にお客様がみえるんですね」
「そうよ」
 常庭の住人は、三人だ。森の神であるフサヱさんと、常庭で働く朝来、そして、今この場にはいない、雪夏という案内役の少年だ。雪夏は、現世と常世を行き来できる、唯一の存在である。
「雪夏って、すごく優しいけど、すごくミステリアスですよね」
 朝来がフサヱさんに視線を送ると、フサヱさんは笑って頷いた。
「いただきます」
 朝来も、フサヱさんも、食事の前には目を閉じて、両手を合わせる。春風と共に食べるあつあつの朝食は、絶品だ。
 塩と胡椒を振った目玉焼きを、厚切りのトーストに乗せて一口齧ると、黄身がとろりと広がった。朝来の笑顔も、とろけそうだ。フサヱさんの目玉焼きは、世界一美味しい。菜の花のバター炒めも、少しだけほろ苦くて、歯ごたえもあり、とても美味しい。
「うーん! 美味しい!」
「朝来ちゃんは、何でも美味しい美味しいって言ってくれるから、作り甲斐があるわ」
 フサヱさんは、ナイフとフォークで上品に、目玉焼きと菜の花を交互に口に運んでいる。
 朝食を終えると、次は掃除と洗濯の時間だ。
「さあ、洗濯をするわよ! 朝来ちゃん、シーツとベッドカバー、あと枕カバーを持ってきて!」
 「はい!」と言って、朝来は屋敷の中へ入った。フサヱさんは、リネン類の洗濯が大好きだ。常庭に洗濯機はないから、朝来とフサヱさんの二人がかりで、シーツやベッドカバーを盥に入れ、石鹸水に浸して、足で踏んで洗う。運動になるし、気持ちがいい。何より、洗濯物が清潔になっていくことが嬉しい。
 すすぎが終わると、二人で洗濯物を絞って、庭の物干し竿に干す。沢山の洗濯物が、平和を象徴する旗のように、春風に吹かれてはためく。太陽の光を浴びて乾いていく洗濯物を眺めることが、毎日の何よりの楽しみなのだと、フサヱさんは笑う。
 太陽が午後三時の角度に位置する頃、フサヱさんは、屋敷の台所でスコーンを焼いていていた。雪夏が連れてくる、「お客様」のためのお菓子だ。フサヱさんには、お客様が訪れる時刻がわかるらしい。どうしてそんなことがわかるのか、朝来はいつも不思議に思う。きっと、フサヱさんが神様だからなのだろう。
「朝来ちゃん、湧き水を汲んできてくれる?」
 フサヱさんが差し出した水瓶は、薄い青色のつやつやとした磁器で、持ち手には植物が彫刻されている。フサヱさんの左手には、幾筋もの皺が刻まれ、青く透けた血管が走っている。人差し指には、金色の指輪が光る。
 水瓶を受け取った朝来は、屋敷の裏の泉へと向かった。直径が大人の十歩ほどの大きさの泉は、周囲に生えている白樺たちの白い肌の色と、少しだけ萌えた若葉の色を、穏やかにその水面に映していた。泉の底からは、こぽこぽと水が沸いている。澄んだ水を手で掬って口に含む。水はかすかに甘く、まろやかで、体中にエネルギーが満ちてくる。
 朝来は、水を満たした水瓶を屋敷に持ち帰り、フサヱさんに手渡した。フサヱさんは、水瓶を抱えたまま、窓の外を見つめた。
「風が吹くかしら」
 フサヱさんが呟くと、ごう、と風が吹いた。風は、古い森の木々を揺らし、森を鳴らした。
 朝来は、風の音を聞き、暫し森を見つめた。
 フサヱさんが、玄関の木戸を開ける。吹き込む春風に、フサヱさんのライトグレーの髪が、ふわりと揺れた。
「お客様ね」
 フサヱさんは、朝来の右肩に左手を置くと、灰色の目を細めて、森を見つめた。

 森が、開かれたのだ。

 常庭に、お客様がやってくる。
 きっと、いつもそうであるように、背負いきれない重荷を、心の中に抱えて。


<第二話に続く>

第二話:母であり、病人である前に

第三話:命を捨てないで

第四話:あなたは、この世界に必要



第五話:それでも、朝は来る



第六話:あなたの話を聞かせてちょうだい


最終話:未来への小さな扉を開く


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