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『神隠しの庭で、珈琲を』 第五話:それでも、朝は来る #創作大賞2024

第五話:それでも、朝は来る 

 夕暮れ時の常庭とこにわに、雨が降り続いている。屋敷の窓から空を見ると、雲が低く垂れこめ、霧のように森を煙らせている。窓に張り付いた雨滴は、ダイヤモンドのように輝く。小さい雨滴が、大きな雨滴に飲み込まれ、左右に小刻みに揺れながら、窓ガラスの上を滑り落ちていく。
 小鳥の歌は聞こえない。代わりに、鼓膜が微かな遠雷を拾う。
 朝来あさきは、雨音を聴きながら、チェロを弾いていた。バッハの無伴奏チェロ組曲を、第一番から、丁寧に弾き込んでいく。弦の上を弓が滑り、なめらかなベルベットのような音色が、屋敷を骨組みごと振動させる。
 雨の日の常庭は寒い。フサヱさんは、薪ストーブの傍のロッキングチェアに座り、ブランケットを膝の上にかけ、穏やかな表情でレース編みに没頭している。フサヱさんの装いは、長袖の白無地の麻のワンピースだ。
 朝来が弓を止めると、ロッキングチェアがぎしぎしと揺れる音に、薪ストーブの炎が爆ぜる音が重なった。
「今日は朝から雨で、洗濯物を干せないから、なんだか物足りないわあ」
 フサヱさんがため息をつく。
「私は好きですよ、雨。植物が喜ぶ声が聞こえるみたいで」
「まあそうね」
「きっと、もうすぐ止みますよ。止まない雨はないって言うでしょう?」
 朝来は、フサヱさんを元気づけようとして、明るく笑って見せた。
「雨が止むまで、待っていられればね」
 フサヱさんは、朝来の瞳を覗き込んだ。その表情に、朝来はなぜかどきりとした。一瞬、朝来の記憶の中で、誰かが動いた気配を感じた。その気配を、朝来は無意識のうちに滅却した。なんでもない。なんでもないのだ。
雪夏せつか、朝から出かけて行ったけど、大丈夫かなあ」
 朝来は、気持ちを外に向け、窓を流れる雨滴を眺めて、ぼんやりと心配そうに呟いた。
「嵐になる前に、戻ってこられるといいんだけど」
 フサヱさんの言葉通り、雨はすぐに強く降り出し、風も吹き始めた。
「朝来ちゃん」
 フサヱさんが、チェロの手入れをしている朝来の隣で屈むと、朝来の手を取った。
「あなたには、時が必要です。雨が止むまで、ここで一緒に待ちましょうね」
「フサヱさん?」
 朝来が不思議そうに首を傾げると、フサヱさんはすっと立ち上がり、目を細めて玄関の扉を見つめた。
 嵐の中、風がひと際強くごうっと吹き、森を鳴らした。

 森が、開かれた。

「お客様ね」
 フサヱさんが、玄関の扉に向かって一歩進んだ時だった。扉を叩く音が、屋敷に響いた。
 フサヱさんは、音を確かめるように一呼吸置くと、扉の前に歩み出て、鍵を開けた。玄関の扉に鍵がかかっているのを見たのは、朝来が常庭に来てから初めてだ。
「どうして、鍵を?」
「誰が扉を叩いたのか、聞き分けるためよ」
 胸騒ぎがして、朝来は扉に走り寄ると、開けた。
 人間の姿をした雪夏と、三十代前半くらいの青年が、ずぶ濡れになって現れた。青年は、上下共に青い、薄い生地の半袖に長ズボンという、少し変わった服装をしている。術衣だ、と朝来はとっさに思い出した。けれど、どうして思い出せたのかが、分からない。
 朝来を見た青年の瞳が、銀色の縁の眼鏡の奥で、大きく見開かれ、震えていた。朝来を、また耳鳴りが襲う。右手で頭を押さえ、何度か瞬きをした。
 ふと、朝来は気配を感じ、森を見た。木の門の手前に、ずぶ濡れのまま、誰かが立っている。灰色のマントを深く被った人物だ。顔が覆われていて、年齢も、性別もわからない。マントはぐっしょりと濡れている。お客様だろうか。屋敷に入れたほうがいいのだろうか。
 フサヱさんが、朝来の視線に気づいた。
「朝来ちゃん、目を合わせては駄目!」
 フサヱさんは、ずぶ濡れの雪夏と青年の手を取って屋敷の中に引き入れ、勢いよく玄関の扉を閉め、鍵をかけた。
「バスタオルを!」
 朝来ははっと我に返り、屋敷の奥の浴室へと走ると、きちんと畳まれた、白い大判のバスタオルを二枚持って、居間へと駆け戻って来た。
 雪夏は、白狐の姿となり、薪ストーブの前に寝そべって、毛皮を乾かしている。
 朝来は、青年にバスタオルを手渡すと、薪ストーブの前へと案内した。
「今、お風呂を沸かしてきますから、ここで暖まっていてください」
 青年は「ありがとう」と呟くと、バスタオルで髪を拭いた。青年に微笑み、踵を返して風呂の準備に取り掛かる朝来の背中を、青年はじっと見つめていた。
 青年は、ゆっくりと屋敷の中を見回した。石造りの壁一面の本棚を、大きな円テーブルを、薪ストーブの炎を、白狐の雪夏を、そして、朝来のチェロを。
「ここは……?」
 青年が、落ち着いた口調で、フサヱさんに問いかけた。フサヱさんの纏う空気が、珍しく張り詰めている。
「ここは常世の入口、常庭です。森で迷ったのね?」
「迷ったと言えば、迷ったのかな」
 フサヱさんは、静かに頷くと、慎重に言葉を選んだ。
「あなたのいた世界で、今も戦争は終わらないのね?」
「ええ。大人も子供も、毎日多くの人が死に続けています」
 青年の目が、鋭く光った。
 フサヱさんは、何も言わずに頷いた。
「どうして、僕のことをご存じなんですか?」
「私は、古い森を司る者。人間ではないわ」
「じゃあ、もしかしたら僕は。でも、それでもいいです。最後に、またあの人に会えたから」
 フサヱさんは、青年を射るように見ると、歩み寄った。
「朝来ちゃんは今、静かに時を待っています。あなただけの都合で、彼女を苦しめてはいけません」
 青年は、寂しそうに笑うと、頷いた。
「わかっています」
 青年が言葉を切った時、朝来が居間に顔を出した。
「お風呂が沸きましたよ! 冷めないうちにどうぞ」
「ああ、ありがとうございます」
 青年が風呂に入っている間、朝来とフサヱさんは、夕飯の支度にとりかかった。
「あの人、きっとお医者さんですね。あの服、術衣って言うんですよね。病院の近くに、森があったのかなあ」
「そうね」
「夕方にお客様が来るなんて、私が常庭に来てから、初めてじゃありません?」
「そうよ」
 朝来は、手を止めて、フサヱさんを見つめた。
「フサヱさん、どうしたんですか? さっきから様子が変ですよ。具合でも悪いの?」
 フサヱさんは、皺だらけの顔で、少し苦しそうに笑った。
「常世の神様にだって、悩みごとの一つくらいあるわ」
「もしかして、あの灰色のマントをかぶった人のことですか? あの人、何者なんでしょう? ずぶ濡れだったし、屋敷に入ってもらった方がよかったのかな」
「いいえ、その必要はないわ。大丈夫よ」
 朝来が気づかないほどの刹那、フサヱさんの瞳が、かつてないほど鋭くなった。
 まな板の上で野菜を切っていた朝来は、へえ、と首を傾げて微笑むと、食事の支度を続けた。
 いつの間にか、窓の外は、すっかり暗くなっていた。
 青年が、風呂から上がって来た。雪夏のいつもの服を貸したので、青年と雪夏は、年が離れた兄弟のようだ。
「私ったら、慌てて自己紹介を忘れていました。ここは、常世に迷い込んだ人に休んでもらうための場所、『常庭』です。オーナーは、森の神様のフサヱさんで、あなたを案内してきたのが、雪夏。私は、アシスタントをしている朝来と言います」
 フサヱさんと雪夏に目で合図をしながら、朝来は、天真爛漫に常庭の住人を紹介した。
「そうですか。ありがとう」
 青年が何かを言おうとして、口を開きかけたとき、フサヱさんが大きな土鍋を持って現れた。
「さあ、ご飯ができたわよ!」
 フサヱさんが、居間の円テーブルの中央に土鍋を置いて蓋を開けると、幸せな湯気が立ち上った。
「今日は、春野菜と鶏肉のお鍋ですよ」
 朝来はそう言って、一人分ずつ、取り皿に鍋を盛り付けていく。タラの芽、フキ、ワラビに茸、春人参にカブといった、常庭で採れた春の野菜と、鶏肉の出汁の香りが居間に広がった。雪夏が、玄米ご飯を炊いた土鍋の蓋を開け、ご飯を茶碗に盛り、それぞれの席に並べていく。青年は、朝来の向かいに座った。
「いただきます」
 三人が手を合わせると、青年もそれに倣った。青年は、美しい所作で一口食べると、微笑んだ。眼鏡の奥の、くっきりとした二重瞼の目尻が下がる。
「すごく、美味しい」
 朝来の顔が綻ぶ。
「よかった! 今日、すごく寒いから、お鍋にして正解でしたね、フサヱさん」
 フサヱさんは、どこか上の空で、「そうね」と呟くと、箸を進めた。
「あの、お名前は?」
 朝来が青年を見つめると、青年は一呼吸置いて、無理に微笑んだ。
「忘れてしまったんです」
 薪ストーブの炎が、バチッと爆ぜた。
「それって、私と一緒です。私も、常庭に来た時には、自分の名前も忘れてしまっていて。フサヱさんに名前を呼ばれて、思い出せたんです。そうだ、フサヱさん。私の時みたいに、名前を呼んであげたら? この方のお名前、ご存じないですか?」
 フサヱさんは、表情を変えずに、首を横に振った。
「そう……。フサヱさんにもわからないんですね。私、他にも色々なことを忘れてしまっていたんですけど、常庭のお客様たちとお話しする中で、思い出したこともあるんですよ。私は、現世うつしよ、元の世界ではね、子供たちにチェロを教えていたみたいなんです」
 溌剌とした朝来の話しぶりに、微笑んで耳を傾けていた青年は、小さく呟いた。
「ずいぶん探しました」
「え?」
 青年のその一言が、朝来の心に引っかかった。小さな違和感は、やがて黒い染みとなって朝来の心に広がった。
 夕食を終えると、朝来はフサヱさんと食事の後片付けをした。フサヱさんは何故か、一言も話さなかった。
 片付けを終えると、やはり何も言わずにフサヱさんが豆を挽き、珈琲を淹れた。湯気が立つ珈琲を一口すすると、青年の表情が、柔らかく凪いだ。
「美味しい。こんなに美味しい珈琲を飲んだのは、初めてです」
 フサヱさんは、頷いて珈琲を飲み、マグカップをテーブルに置いて、両手を組んだ。

「あなたの話を聞かせてちょうだい」

「僕の話、ですか?」
 フサヱさんは、テーブルの上で組んだ両手に顎を乗せ、ゆっくりと頷いた。
「あまり、面白い話ではないんですが……」
「お医者さん、ですよね? 術衣を着ていらっしゃったから」
 朝来が青年と目を合わせると、青年は少し沈黙した。
「ええ、僕は医師です」
 青年は、息を吸い込むと、再び時間をかけて言葉を選んだ。
「父も、母も、三歳下の妹も、僕が十七歳の時に、あの震災で亡くなりました」
 朝来の中の何かが、どくん、と脈打った。
「僕だけが、部活の遠征で県外に出ていた。だから助かったんです。沢山の大好きな人を、震災に殺されました。生きていることに必然性なんてない。命はただの偶然なんです。あの時、生と死の境界は、あまりにも曖昧だと知りました」
 雨の音に、遠雷が混じった。
「偶然助かった自分の命をどう使えばいいのかを、必死で考えました。その結果、辿り着いた答えが、医師を目指すことでした。親戚の援助を受け、奨学金をもらって、医学部に通わせてもらいました。僕を助けてくれた人たちには、感謝してもし尽くすことはありません」
 フサヱさんは、深く呼吸をしながら、青年の話に耳を傾け続けている。雪夏が、何故か心配そうな目で、朝来をちらりと見た。
「南半球のあの国で、戦争が起こったでしょう」
 青年が朝来を見た。何かの答え合わせをするように。けれど、朝来には記憶がない。
「今日も、あの国では、人が死に続けています。僕は、おこがましくも、戦地で苦しむ人々を救いたいと思いました。医局で五年働いた後、紛争地域への派遣を希望しました。今になって思うと、偶然生き残ったことが申し訳なくて、死に場所を探していたのかもしれません」
 青年は、言葉を切ると、苦しそうに笑った。
「死に場所なんて探さないでください! 天国のご家族もきっと、あなたに生きていて欲しいと思っていらっしゃるはずです!」
 朝来が、珍しく大きな声を出した。
「僕の人生は、あの震災の日に、すでに空っぽになっていました。でも、ここでこうして、あなたに会えたから」
 青年は、朝来の瞳を見つめた。
「覚えていますか? あの、チェロのコンクールの日の朝のこと」
 朝来は、困惑した。この青年は、朝来のことを知っているようだ。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
 青年は、ふっと息を吐くと、寂しそうに笑った。居間の床に置かれたチェロを見ると、青年の表情が揺らいだ。
「もしよろしければ、チェロを弾いて頂けませんか?」
「はい、私でよければ……。何を弾きましょうか?」
「トロメライ。ロマチックシューマン作曲」
 どこかで読んだことがある台詞だ。朝来は、不思議にも懐かしさを感じた。
「トロメライ……。ああ、宮沢賢治の、『セロ弾きのゴーシュ』に出てくる猫のセリフですね」
 青年は、ぱっと顔を輝かせ、大きく頷いた。
「それでは、シューマンのトロイメライを」
 朝来は席を立って、居間を横切り、薪ストーブの前の一人掛けのソファに腰かけた。朝来がチェロを構えると、その刹那、遠雷と雨音だけが、屋敷に響いた。
 チェロが、琥珀色の音色を紡ぐ。ドファ。ミファラドファファ。美しいオクターブの跳躍が、音に柔軟性を与える。チェロの音は、屋敷の窓を抜け出し、夜の雨空へ、どこまでも伸びていく。平和だ。朝来のチェロは、現在進行形で平和を構築しているのだ。この音を聴けば、争う心は消える。青年は、ゆっくりと目を閉じた。
 朝来は、目を伏せて、音に集中していた。柔らかく、芯を持って、荒れ狂う海が凪ぐように。音を紡ぎながら、朝来の頭の中の雪嵐の向こうで、誰かがまた動いた。
——誰?
 朝来の問いかけに応じず、雪嵐は記憶を真っ白に覆い隠す。常庭に降る雨が、朝来の中に去来するその記憶を、土に還していく。
 曲が終わると、誰もがじっと沈黙して、残響の後の余韻を味わっていた。
 夜は更けたはずだ。常庭には時計がないから、現在の時刻はわからない。今夜は月も星も見えないから、時を知ることができない。
 けれど、誰も眠ろうとしなかった。
 時折、窓の外に稲光が見えた。雷の音が近づいてくる。
「雷は、苦手なんですよね」
 朝来は、チェロを倒して床に置くと、両腕で体を包み込み、不安げに周囲を見回した。
「大丈夫よ、すぐに通り過ぎるわ」
 フサヱさんが呟いた時だった。空がひときわ明るく光ったかと思うと、同時に屋敷の真上で、雷鳴が轟いた。どおん、という音が振動に変わり、屋敷を揺さぶった。
 朝来は、悲鳴を上げると、頭を庇って床にしゃがみこんだ。
 青年が、椅子からがたりと立ち上がると、朝来の元へと駆け寄った。
「大丈夫?」
 朝来の瞳を覗き込んだ青年の瞳が、震えていた。朝来を、また、耳鳴りと頭痛が襲う。
——この人は、もしかして。
 朝来が青年を見上げた時、玄関の扉を、誰かが叩いた。ひどく乱暴で、攻撃的な音だ。
 フサヱさんが、険しい表情で、扉の方を睨む。扉をこじ開けようと、ドアノブを引いて回す音が聞こえる。
 稲光が、再び屋敷の直上で光った。
 屋敷の窓に、誰かが張り付いている。あの、灰色のマントを被った人物だ。
 肌はマントと同じ灰色で、二つの目は真っ黒だった。横に大きく開いた口からは、牙が覗いている。人ではない「それ」は、朝来を見て笑っていた。
 朝来は思わず「ひっ」と悲鳴を上げて、青年に身を寄せた。
 青年の髪から、懐かしい香りがする。
——そうだ。この人は。
 朝来が口を開いた時、フサヱさんが席を立った。窓に向かって動ぜずに歩み寄る。
「森を開きます。お帰り下さい」
 稲光に照らし出されたフサヱさんは、別人のように厳しい表情をしていた。フサヱさんは、左手の人差し指と中指を伸ばして立て、印を結ぶと、何かを小声で呟きながら、指で空を切った。左手の人差し指にはめられた指輪が、青く発光する。
 直後、風が立ち、森がごうっと鳴った。
「森は開かれました。どうぞ、お帰り下さい」
 風が、マントを被った「それ」を吸い込む。窓から引き剥がされた「それ」は、牙を剥きながら、強烈な風に吹かれ、森へと飛ばされていった。
 フサヱさんは、ふうっと息を吐くと、青年に向き直った。
「あなたも、帰るのね?」
「ええ。もう行かなくては」
「私にできることは、全て行いました。時間は稼いだわ。このまま常庭に居れば、『あれ』は、必ずまたあなたを捕えるために戻ってきます。常庭はあなたを、永遠には守り切れない。私の力が及ぶうちに、お帰りなさい」
 フサヱさんが、立ち上がった青年の肩に触れた。
 人間の姿になった雪夏が、青年の傍にそっと立つ。青年は、朝来に微笑むと、扉の方に歩いていく。青年が朝来に何かを言おうとすると、フサヱさんが、首を横に振った。
 青年は、全てを諦めたように、寂しく笑うと、雪夏の後をついて、屋敷の外へ出た。
「フサヱさん、どうして?」
 問いかける朝来に、フサヱさんは答えない。
『ずいぶん探しました』
 青年の言葉が蘇る。
 朝来の中で、様々な大きさの歯車が、順に噛み合っていく。頭の中の雪嵐が晴れていく。吹雪の向こうにいた人物が、今、目の前にいる。
「待って! ここにいて!」
 朝来が叫んだ。
「それはできないよ、朝来。僕は、もう行かなくちゃ」
「どうして今まで黙っていたの? どうして何も教えてくれなかったの?」
 走り出そうとする朝来を、フサヱさんが後ろから抱き止めた。
「離して下さい!」
「朝来ちゃん、駄目! 黄泉の国に引きずり込まれるわ!」
「黄泉の国!?」
 青年は、雪夏と共に去っていく。
 朝来は、喉が潰れるほど大きな声で叫んだ。
幸成ゆきなりさん!」
 青年は、ゆっくりと振り返った。青年の顔に、驚きが、次いで幸福が広がる。
「朝来。思い出してくれたんだね」
「行かないで! お願い!」
 幸成が立ち止まる。
「夜に降る雨は止み、必ず朝が来ることを、君が教えてくれたんだよ。夜間飛行を続けていた僕を、光の中へ導いてくれたのは、君だ」
 これが、最後になるのだろうか。
「朝来。愛してる」
 幸成はふわりと笑って、森へと向き直った。
 朝来の瞳孔が大きく開き、震えた。

<第六話へと続く>

第六話:あなたの話を聞かせてちょうだい

第四話:あなたは、この世界に必要


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