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『神隠しの庭で、珈琲を』 第六話:あなたの話を聞かせてちょうだい #創作大賞2024

第六話:あなたの話を聞かせてちょうだい

幸成ゆきなりさん! 待って!」
 朝来あさきは、フサヱさんの腕を振りほどき、屋敷の外へ出た。走ろうとしても、水の中にいるようで、足が思うように前に進まない。幸成と雪夏せつかは、森に向かって滞りなく歩き、どんどん遠ざかっていく。
 足を無理矢理に動かすと、体が何かに当たって止まった。透明な壁が、朝来を阻んでいた。朝来は、泣きながら、両手で壁を叩いた。
「通して! 通してよ!」
 幸成と雪夏は、木の門をくぐり、森の中へ消えた。
 朝来は、声の限り、幸成の名前を叫んだ。
 フサヱさんが走り寄り、朝来を後ろから抱きしめた。
 東の空が、群青に変わっていく。夜明けだ。朝来は、フサヱさんに抱きしめられたまま、地面に崩れ落ちた。桜の老木の枝に止まったヒヨドリが一声鳴き、黎明を告げる。夜露が空気中に蒸発し、草木の匂いがしっとりと濃い。朝来は、喉が裂けるほどに叫び続けた。朝来の慟哭が、夜明けの森に吸い込まれ、消えていく。

 朝来は、屋根裏部屋のベッドの上で目を覚ました。西日が射している。もう夕方だ。ずいぶん長く眠ってしまった。じきに夜が来る。今夜が、常庭とこにわでの最後の夜になるだろう。
「朝来ちゃん」
 フサヱさんの声がした。声のする方へ顔を向けると、フサヱさんが、おむすびを二つ、皿にのせてベッドの傍に立っていた。
「フサヱさん。すみません、私」
「気にしないで。少し起きられる?」
 朝来が体を起こすと、フサヱさんがおむすびを差し出した。受け取って、一口齧ると、きりりと塩が効いている。いつもの梅干しの香りがふわりと立ち、弱った体に力が満ちてくる。
「美味しい」
 朝来の目から、涙が一粒、こぼれ落ちた。
 森に棲む烏の鳴き声が聞こえた。烏たちは、森の家へと帰っていく。朝来にも、帰る場所があるのだろうか。
「夕食は?」
 フサヱさんに問われ、朝来はゆっくりと首を横に振った。
「そう。お腹が空いたら、降りていらっしゃい」
 フサヱさんは、朝来の髪をやさしく撫でると、皺だらけの顔で微笑んで、部屋の扉を閉めた。
 ここは聖域だ。自分は守られている。けれど、記憶を取り戻した以上、ここを去る時が来たのだ。日が落ちても、朝来はベッドから起き上がらなかった。森からキジバトの声がして、決心すると、朝来は起き上がり、屋敷の居間へと階段を下った。
 雪夏は、まだ帰ってきていない。薪ストーブの炎が、ゆらゆらと燃えていた。朝来に気付くと、フサヱさんはにっこりと笑って、円テーブルに着くよう、促した。ほどなくして、フサヱさんが、小さな土鍋を持ってきた。テーブルの上で蓋を開けると、コンソメの香りが湯気と共に立ち上る。
「少し食べなくちゃ」
 朝来の向かいに座ったフサヱさんに微笑んで、朝来は手を合わせた。コンソメの雑炊は、朝来が常庭で初めて食べた食事だ。美味しい食事は、体だけでなく心をも満たす。ゆっくりと時間をかけて、朝来は雑炊を食べきった。後片付けをしようと立ち上がる朝来の肩にフサヱさんが触れ、微笑んだ。
 二人だけの常庭で、夜が更けていく。薪ストーブの炎が爆ぜる音に、梟の鳴き声が混じる。
「フサヱさん。私、思い出しました。私が常庭に来た理由を」
 朝来は決心して、口を開いた。フサヱさんが、静かに頷く。

「あなたの話を聞かせてちょうだい」

 朝来は頷いて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「幸成さんは、私の夫です」
 頷いたフサヱさんは、きっと初めから知っていたのだろう。
「初めて幸成さんに会ったのは、私が音大生だった時です。チェロのコンクールの会場に向かっていた時でした。ヘッドフォンで集中して課題曲を聴いていて、周囲が見えずに、赤信号の中、横断歩道に飛び出してしまったんです。車とぶつかりそうになった時でした。幸成さんが、私の手を引いて、歩道に戻してくれたんです。すごく怒られました。死ぬところだったんだって。命を粗末にするんじゃないって。その時はそのまま別れました」
 朝来は、大切な宝箱の蓋を開けるような表情で、話し続ける。
「コンクールの結果は、さっぱりで。私、演奏家に向いていないのかなって、悩みました。友人の紹介で、近くの大学病院のロビーコンサートに出た時でした。白衣を着た幸成さんと、再会しました。その時、幸成さんがお医者さんだって知って。怒られた理由がよくわかりました。幸成さんからお誘いいただいて、お付き合いが始まりました」
 フサヱさんの表情が、柔らかい。朝来の目を見ながら、優しく相槌を打ってくれる。
「出会った時、私も、幸成さんも、人生の岐路に立っていました。私は子供が好きなこともあって、演奏家として舞台に立つよりも、チェロの先生になりたいと思うようになっていて。一方の幸成さんは、救命救急医として、海外の紛争地域への派遣を希望していました。正直、危険な地域での勤務には反対でした。けれど、幸成さんの決意は固くて」
 朝来の長い睫毛が、白い頬に影を落とした。
「私たちは、出会った翌年に結婚しました。結婚して、二年が過ぎた頃です。幸成さんは、南半球の紛争地域へと旅立ちました。その三か月後、幸成さんが派遣された地域が、空爆されて壊滅しました。幸成さんと、連絡が取れなくなりました」
 朝来は、膝の上で握っていた両手をテーブルに乗せた。手が震えている。フサヱさんは、朝来の冷えた両手を包んだ。温かく、乾いた手だ。
「キャンプ地のすぐそばにあった美しい森も、空爆で焼けてしまったと聞きました。きっと幸成さんは、その森に逃げて、迷って、雪夏の後をついて来たんですね」
 朝来の、漆黒の大きな瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「フサヱさんは、幸成さんが常庭から去ってしまった時、『黄泉の国』と言ったでしょう? あのマントを被った人は誰? 幸成さんは、黄泉の国に行ってしまったの?」
 フサヱさんは、朝来の瞳をじっと覗き込んで、慎重に言葉を選んだ。
「わからないわ」
「わからない?」
「あの嵐の中、常庭の扉を叩いたマントの人物は、黄泉の国の使者よ。本来、黄泉の国の使者が常庭を訪れることはない。使者はルールを破ったの。それは、幸成さんを、何としてでも黄泉の国に引きずり込むため。幸成さんの純粋で美しい魂は、彼らにとっては、涎を垂らすほどの価値があるの。だから、扉に鍵をかけたわ」
 朝来の顔から、血の気が引いていく。
「私の力で、少しだけ時間を稼いだの。あとは幸成さん次第。その時間を使って、黄泉の国からの追手をかわして、現世うつしよに戻ることができれば」
「じゃあ、幸成さんは、もしかして、まだ……」
 フサヱさんは握った手に力を込めた。
「私は、過去と現在のことは把握できるけれど、お客様が去った後、未来を見通せる力がないの。だから、雪夏が見届けてくるまで、幸成さんのことは、わからないわ」
 朝来は、俯いた。
「幸成さんが働いていたキャンプ地が壊滅したとき、私のいた世界は、冬でした」
 朝来の声が、涙で滲む。
「私は、真冬の森に入りました。幸成さんと、よく散歩に出かけていた森です。森の主のような、大きな椎の木があるんです。その木に会いに行って、チェロを弾けば、幸成さんに、思いを伝えることができるかもしれないって。私、頭がおかしくなっていたんですね」
 朝来は、頭を抱えた。
「けれど、どこを探しても、その木に会えなかった。迷ったんだと気づいた時、雪夏が現れたんです。金色の目の、尾が三本ある、白い狐でした。猛吹雪の中を、ただその狐を見失わないように歩きました。必死で歩いていたら、突然嵐が止んで、目の前の景色が春になりました。そうして、常庭に辿り着きました。全ての記憶を失っていました」
 「これが、私の物語です」と語り終えた朝来の表情に、諦めと、わずかな希望が混在していた。
「フサヱさんは、私のことも、幸成さんのことも、最初から知っていたの?」
 朝来の瞳が、涙に飲み込まれていく。フサヱさんは、優しく朝来の髪を撫でた。
「どうして、幸成さんが来てくれた時、教えてくれなかったの?」
 フサヱさんを責める気持ちはない。けれど、どうしても涙は溢れ、言葉が尖る。
 フサヱさんは、困ったように頷いた。
「朝来ちゃん、あなたのように、記憶を全て無くしてしまった人が来たのは、私が常庭を開いてから、初めてのことだったの」
 フサヱさんのライトグレーの髪が、顎の辺りでふわりと揺れる。
「あなたには、時が必要だったわ。全ての記憶を一気に取り戻したら、あなたはきっと、壊れてしまっていたでしょう」
 確かにそうだ、と、朝来は頷いた。
「琴音さんが常庭に来てから、偶然が重なったわ。琴音さん、キヨさん、優都くんの人生の物語の中に、あなたが記憶を取り戻すためのヒントが隠されていたの。このまま、少しずつ記憶を取り戻してほしかった。けれど、幸成さんが突然現れた」
 フサヱさんの手の甲に、朝来の温かい涙が一粒、落ちた。
「もしもあの時、全てを思い出してしまったら、あなたは何が何でも幸成さんについて行ったでしょう。たとえ、向かう場所が、黄泉の国でもね」
 フサヱさんの目が、潤んだ。
「黙っていてごめんなさい。朝来ちゃん。私は、あなたに生きていて欲しいの。残酷なことをしてしまったわ。私、あなたに嫌われたって構わない。それでも、朝来ちゃんには、生きて現世に帰ってほしかったの」
 朝来は、ぼろぼろと泣きながら、フサヱさんの手を握り返した。今までこんなにも自分の存在を肯定し、自分を大切に思っていてくれる人がいただろうか。生きていて欲しいと、言葉に出して伝えてくれる人が。
 涙が枯れるまで泣いた後、朝来は屋根裏部屋に戻り、ベッドに入った。太陽の匂いがする布団にくるまれ、満天の星空を見上げながら、最後の夜を過ごす。
 生きているって、何だろう。どうして、命を与えられたのだろう。この星空の向こうには、銀河があって、その向こうには、一体何があるんだろう。生とは、死とは何だろう。この広い広い宇宙で、時間軸が交わり、人と出会えたことは、本当に奇跡だ。
 朝来は、知らないうちに、眠りの世界へ落ちて行った。

 常世とこよに、朝が来た。朝来は、自室を見回した。ここに持ってきたのは、衣類、冬物のコート、手袋、スノーブーツ、そして、チェロで全部だ。
 いつものように、とんとんと朝食の支度をする音が聞こえる。階下に向かうと、フサヱさんが、鼻歌を歌って、朝食を準備していた。
「おはようございます!」
「おはよう、朝来ちゃん。よく眠れた?」
「はい! 水を汲んできます」
 朝来は、水瓶を取ると、屋敷の裏の泉へと向かった。水面は、今日も静かに白樺の姿を映していた。水を一口掬って飲む。体の中が、澄みわたっていく。
 水瓶を持って屋敷に入ると、フサヱさんが、桜の老木の下のテーブルに配膳をしていた。
「気持ちがいい朝ね」
 フサヱさんは、皺だらけの顔で笑うと、朝来に、席に着くよう目で合図した。
 梅干しのおむすびと、ワラビの味噌汁だ。常庭で食べる朝食も、これが最後だと思うと切なくなる。
 食後、フサヱさんが、珈琲を淹れた。
 桜の老木を見上げながら、二人で最後の珈琲を飲む。珈琲は、微かに甘くて、きりっと苦くて、まろやかだった。この神隠しの庭で飲む珈琲の味だけは、忘れずに現世へ帰りたい。
「雪夏は……?」
 朝来が尋ねた時、ごうっと風が吹いた。森が鳴る。

 森は、開かれた。

 現世に帰る時が来たのだ。
 フサヱさんが指さす先、木の門の手前に、白狐の姿をした雪夏が座っていた。三本の白い尾が、ふわりと持ち上がる。
 朝来は、屋根裏部屋に戻ると、冬の装備を身に着け、チェロを背負った。
「フサヱさん、今まで、本当にありがとうございました」
 常庭で過ごした思い出が蘇る。いつもお客様の話に真摯に耳を傾け、お客様の物語を引き出してくれたフサヱさんを、朝来は心から尊敬している。
「私の物語を聞いてくださって、ありがとうございました」
 涙ぐんで頭を下げる朝来の肩に、フサヱさんが触れた。
「ありがとう、朝来ちゃん。あなたが来てくれて、本当に楽しかったわ。常世の神様って、案外暇なのよ」
 くるりと目を回して、フサヱさんはおどけてみせた。朝来も、つられて笑った。
 常庭を見回す。桜の老木が、石壁の蔦が、玄関の扉の周りを這うつるばらが、裏庭の白樺の木が、何種類もの春の山野草が、全ての命が、朝日の中で輝いていた。
 朝来は、雪夏のいる方へ歩き出した。
 最後に一度、振り返ろうとすると、後ろからフサヱさんの声が聞こえた。
「振り返らないで」
 朝来は、回しかけた頭を元に戻す。
「朝来ちゃんなら大丈夫よ! 素晴らしい人生を!」
 懐かしい思い出が溢れて、朝来の両目から涙が溢れた。もう、振り返ってはいけないのだ。
 雪夏が立ち上がり、「ついて来い」と金色の目で合図する。幸成のことを聞きたいが、狐の姿ではそれも叶わない。
 朝来は、木の門をくぐった。常世には、もう戻れない。
 雪夏は、時々朝来を振り返りながら、森の奥へと進んでいく。
「教えて雪夏! 私たちは、どこへ向かっているの? 幸成さんは、今どこにいるの?」
 雪夏は、振り返らない。
 深い緑の森を、ひたすら奥へ、奥へと進んでいく。どれくらい歩いた頃だろう。雪夏が、突然立ち止まり、朝来を振り返った。
「ここからは、私一人で行くのね?」
 朝来の問いかけに頷くように、雪夏は、三本の尾をひょいと持ち上げた。
 朝来が、頷いて雪夏を一歩追い越した時、眼前の世界が、冬の雪嵐へと変わった。息を吸おうと開けた口から真っすぐ肺へ、暴風雪がなだれこんだ。
 呼吸が、できない。

<最終話に続く>

最終話:未来への小さな扉を開く

第五話:それでも、朝は来る


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