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『神隠しの庭で、珈琲を』 第四話:あなたは、この世界に必要 #創作大賞2024

第四話:あなたは、この世界に必要
 
 常庭とこにわの象徴ともいえる、桜の老木の枝が風でしなる。花びらが、ひとひら、またひとひらと散り、春風に乗って旅を始める。この桜の花びらの総数は、どれくらいあるのだろう。同じように見えるたくさんの桜の花びらにも、きっとひとひらずつ個性があるのだろうと、朝来あさきは、風に運ばれていく花びらを目で追った。
 今日は、昼過ぎにお客様がみえると、フサヱさんが言っていた。洗濯は、フサヱさんと共に朝一番に終わらせている。朝来は太陽の角度を確認した。まだ昼までには時間がある。朝来は、客人をもてなすために、屋敷の掃除に取り掛かった。
 ゲストルームの窓を開け、棚や机にはたきをかける。外界に開かれた窓からは、庭に自生する様々な草花の香りが入って来る。太陽と、緑と花が混じった、毎日のこの香りに飽きたことはない。朝来はバッハの無伴奏チェロ組曲を鼻歌で歌いながら、床を箒で掃いた。
 掃き掃除が終われば、次は拭き掃除だ。固く絞った雑巾で床を拭く。年季の入った濃い褐色の床板が、磨かれてつやつやと光る。
 リズムに乗り、床全面を拭いていく。掃除をすると、頭の中でもやもやと絡まっていた考えが、すっきりとほどけてまとまるから、不思議だ。
 ゲストルームの掃除を終えると、次は水回りに取り掛かる。台所、洗面所、お風呂にトイレと、朝来は慣れた手つきで、次々に水回りを掃除していく。水回りの掃除をすると、なぜか体の調子が良くなる気がする。
「朝来ちゃん、お昼ご飯よ!」
 フサヱさんに呼ばれた。雪夏せつかは、朝から出かけている。深緑のAラインのワンピースを纏ったフサヱさんが、桜の下の杉の一枚板のテーブルに皿を並べる。今日は、フサヱさん特製のナポリタンだ。ケチャップの香りがする湯気がほかほかと立ち上り、食欲をそそる。
 朝来は一口食べて、唸った。
「美味しい! フサヱさん、すっごく美味しいです!」
 幸せそうにナポリタンを頬張る朝来を見て、フサヱさんは皺だらけの顔で笑った。
「そうでしょ? 麺の固さも、ケチャップの量も、ウインナーの焼き具合だって、全部朝来ちゃんが好きな風にして作ったんだもの」
「フサヱさん、すごい! 雪夏にも、食べさせてあげたかったなあ」
 フサヱさんと朝来が、昼食の後片づけを終えた時だった。太陽は、軌道の頂点よりも、少しだけ西に傾いている。フサヱさんが、背筋を伸ばし、玄関の扉を開けた。
「ちょうど頃合いだと思っていたの。お客様ね」
 フサヱさんが目を細めると、森から、ごうごうと風が吹いた。森の木々が、風に揺さぶられて、鳴った。
 
 森は、開かれた。
 
 金色の目と三本の尾を持つ白狐の雪夏と一緒に、木の門をくぐって現れたのは、少年だった。雪夏は、一度高く跳ぶと、人間の姿になって着地した。少年は、雪夏よりも幼く、身長は、雪夏の肩くらいだ。黒いシャツと、同じく黒いジーンズを纏う少年は、全く動揺せず、その表情は動かない。
「ようこそ、常庭へ!」
 フサヱさんが、両手を広げて、少年を迎えた。少年は、フサヱさんの前に立つと、じっとフサヱさんの靴を見つめた。視線がそれ以上、上を向くことはない。肌は蝋のように白く、青みがかった灰色の瞳は、年齢にそぐわないほどの知性を湛えていた。
「皆さんの共通言語は、日本語ですね」
 少年が、下を向いたまま口を開いた。声変わりをしていない。
「ええ、そうよ」
 フサヱさんは、動ぜずに答えた。
「では、私も日本語で話すこととします」
 どうやら、少年の一人称は、「私」のようだ。
「あなた、お名前は?」
 フサヱさんが問うと、少年は、わずかに首を傾げた。
「名前が必要ですか? 名前は、ただの記号に過ぎないと思うのですが。まあ、いいでしょう。私の名前は、アダン優都です。よく聞かれるので、先に言います。私は十二歳。父はフランス人、母は日本人です」
「ありがとう。私は、フサヱと言います。ここは、人間の世界、現世うつしよとは別の、常世とこよという世界の入口、常庭とこにわです。あなたは、現世からここに迷い込んだのね?」
 優都は何も言わず、フサヱさんの靴を見つめている。
「こちらが、常庭でアシスタントをしてくれている、朝来ちゃん。隣にいるのは、あなたと一緒に森を抜けて来た雪夏よ」
 優都は、朝来たちではなく、桜の老木をじっと見つめると、次に、太陽の角度を確認した。
「この場所では、時間軸は直線ではない。もしかしたら、らせん状にループしているのかもしれない」
 優都は呟くと、突然頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。地面を見ながら、ひとり何かを呟いている。「関数が」とか、「周波数が」などという単語が聞こえてくるが、数学が苦手な朝来には、何のことやらさっぱり分からない。
「優都くん!」
 フサヱさんが、優都の肩を揺さぶった。優都は、はっとして、三人を見上げると、またすぐに視線を地面に移した。
「このテーブルで、ちょっと待っていて。美味しい珈琲で一息つきましょうね」
 フサヱさんが、優都を無理矢理、桜の老木の下のテーブルへと案内すると、屋敷の中へ入った。優都は、褐色の木の椅子にちょこんと座ると、テーブルの上に散った桜の花びらをしばらく眺めていた。優都の向かいに座った朝来は、やっと気が付いた。この子は、人と目を合わせることが、とても苦手なのだ。
「優都くん、一人で森に入って、迷ったの?」
 朝来は、少し屈んで、優都に目を合わせようとした。優都は、ふっと目を逸らす。とても綺麗な目なのに、と朝来は小さく息を吐いた。朝来の隣に座る雪夏は、いつものように何も言わず、優しい眼差しで、優都を見つめている。
 屋敷の台所から、珈琲の香りが漂ってくる。フサヱさんが呼ぶ声がして、朝来は立ち上がると、屋敷の中へと向かった。石造りの台所には、小さな窓があって、窓辺にはいつも、フサヱさんが選んだ野の花が飾られている。今日は、庭で採れたニリンソウだ。
「あの子、本当は寂しいんだわ」
 フサヱさんが、ぽつりと呟いた。
「あの子には、選ばれた才能がある。特別な才能がね。けれど、周囲の人たちは、その才能を認めたくなかったのね」
「私も、そう思います。優都くんは、誰よりも賢くて、きっと誰よりも孤独なんです」
 フサヱさんは、「そうね」と呟いた。フサヱさんのライトグレーの髪が、顎の辺りでさらりと揺れた。
「常庭での記憶は夢になってしまうけれど、それでも私、優都くんと仲良くなりたいです」
 フサヱさんは、にっこりと笑うと、大きく頷いた。
「一人で考えることも、もちろん大切だけれど、誰かが傍にいてくれることって、とても素敵じゃない?」
 窓辺のニリンソウの二つの白い花が、風にそよいで互いに触れた。
「さあ! 珈琲を淹れたわよ! 優都くんには、カフェインレスのカフェラテよ」
 フサヱさんが、優都の前にマグカップを置く。カップからは、湯気が立っている。
「パンケーキもどうぞ。米粉で作りましたよ!」
 朝来が、パンケーキの皿を並べた。元から大きな優都の青みがかった灰色の瞳が、はっと開かれた。優都は、不思議そうにパンケーキとカフェラテを交互に見た。
 優都以外の三人は、早速、珈琲とパンケーキに手を伸ばした。真っ先に顔を綻ばせたのは、朝来だ。朝来は、左右の頬を両手で包むと、体を揺さぶった。
「このパンケーキ、米粉で作ったから、もちもちしていて、バターの香りがして、とっても美味しいです! 珈琲とよく合いますね!」
 雪夏は、楽しそうに頷いて、隣の朝来の顔を覗き込んだ。朝来の向かいに座る優都は、ちらちらと朝来の顔を見上げた。
「優都くん、すっごく美味しいよ! ね、食べてみて」
 朝来は、テーブルに両手をついて、前のめりになった。朝来のまっすぐな視線を受け、優都は、勇気を振り絞るように、マグカップを手に取った。一口飲むと、優都の瞳に光が宿った。優都は、フォークとナイフを両手に持つと、パンケーキを器用に切り分け、口に運んだ。パンケーキを飲み込んだ優都の瞳は、少し潤んだように見えた。
「どう? 美味しいでしょう?」
 優都は、三秒ほど沈黙した後で、小さく頷いた。優都は、またちらりと三人を見上げると、膝の上で両手を握りしめて、ぽつりと呟いた。
「ここは、この世界は、一体何なのですか?」
 優都の隣に座るフサヱさんが、マグカップをテーブルに置き、優都の方を向いた。
「さっき、少しお話したのだけれど、ここは、あなたがいた人間の世界、現世とは違うの。常世と言って、一言でいうと、神様の世界ね。この屋敷とお庭は、常庭というの。現世から常世に迷い込んだ人に、休んでもらうための場所よ」
 優都は、フサヱさんの深緑のワンピースの襟元にある、白い渦巻きのような刺繍のブローチをじっと見つめた。
「フラクタル」
「そう、このブローチ、フラクタル構造なの! よく気づいてくれたわね!」
「フラクタル構造?」
 朝来が、さっぱりわからないという顔をした。
「そう。フラクタル構造。ほら、野菜のロマネスコみたいに、拡大しても永遠に同じ構造が繰り返されるっていうことよ」
「うーん……。ロマネスコは美味しいけど、よくわからないなあ」
 首を傾げる朝来の顔を見た優都は、桜の老木を見上げて、「そうか。だから」と呟いた。
「そうよ。あなたはとても賢いから、難しい言葉を使うわね。この常世の時間軸は、さっきあなたが言ったように、一方向の直線ではないの。常世にも、朝が来て、夜が来るわ。けれど、季節が進んで、春が終わることはない。この桜も、終わることはないの。まるで、フラクタル構造のように、永遠に春が繰り返されるわ」
 優都は、暫くじっと桜を見上げていた。
「森で、迷ったのね?」
 優都は、「ええ」と囁くと、両目で二度瞬きをし、頷いた。
 フサヱさんは、優都の美しい瞳を見つめると、ゆっくりと優しく、語りかけた。
 
「優都くん。あなたの話を聞かせてちょうだい」
 
 優都は、背筋を伸ばして息を吸い込むと、両手を膝の上からテーブルの上に移して組んだ。
「三年前のあの震災が、どれくらいの被害をもたらすのか、私にはすべて解っていました」
 優都の瞳から、光が消えた。
「当時、私の年齢がもっと高ければ、もしくは、私が大学などの組織に所属していれば、より多くの人を納得させることができたかもしれません。しかし、九歳の私がいくら説明をしても、子供の言うこととして、誰一人、私を信じてはくれませんでした」
 朝来の脳裡に、映像が浮かんできた。頭の中の雪嵐が、また、少しだけ晴れる。
『あの震災が、僕の家族全員を殺したんだ』
 誰かが、雪嵐の向こうで、泣いている。
『海に向かって何度も叫んだ。返してくれって』
 朝来は、雪嵐の向こうのその人の背をさすっていた。
——誰?
 突如、強い頭痛と耳鳴りが、朝来を襲った。思わず頭を抱えた朝来の腕に、雪夏が触れた。
「朝来、大丈夫?」
 朝来は雪夏を見つめた。雪夏の金色の美しい瞳を見ていると、頭痛と耳鳴りがすっと引いていく。雪夏には不思議な力があるのだ。
「優都くん、続けて」
 優都とフサヱさんも、心配そうに朝来を見つめていた。優都は、朝来の言葉に頷き、もう一度息を吸った。
「震動の波形も、揺れの強さの地域分布も、津波の到達時刻と高さも、全て事前に計算できていました。ただ一点、地震がいつ来るかに関しては、予測にぶれがあり、正確性を欠いていました。だから、私は大人たちを説得することができなかった。震災の被害を最小限に食い止められなかったことに、私は強く責任を感じているのです」
 優都は、苦しそうな顔をして、テーブルの上で組んだ両手を見つめた。呼吸の音が聞こえそうな静寂の中、三人は、優都の言葉を待っている。
「今、別の大地震のシミュレーションをしています。早く家に帰って、関数の設計と、プログラムの修正を終わらせないと」
 優都はそう言って立ち上がると、森を見つめた。
 森は、沈黙している。
「優都くん。森は閉じているの。今すぐに現世に帰ることはできないわ」
 フサヱさんは、立ち上がると、優都の両肩に手を置き、静かに優都を着席させた。
「あなた、とても疲れているわ。せっかく常庭に来たのだから、少しゆっくり休んでいきなさい」
 フサヱさんの言葉には、温度があり、優しさがある。
 優都は、栗色の髪の毛をくしゃっと掻きあげると、「それでは、そうするしかないですね」と、また、桜の老木を見上げた。
 マグカップと皿を洗いながら、朝来は、先ほど浮かんできた映像に、思いを巡らせていた。琴音、キヨ、優都との出会いがきっかけで、頭の中の雪嵐が部分的に晴れた。解ったことをつなげてみる。朝来は、アメリカの同時多発テロがあった日に生まれ、現世では、チェロの講師として、子供に楽器の演奏を教えていた。そしてあの震災で、誰か大切な人が、家族を失った。その人は、誰なのだろう。
 突如、朝来の胸に、強烈な懐かしさが溢れた。訳も分からず、目頭が熱い。
「朝来ちゃん。優都くんは、一人で過ごしたいみたいね」
 フサヱさんの言葉にはっとして、朝来はあたりを見回した。ここは常庭だ。窓辺のニリンソウが、風にそっと揺れた。いつもの春風だ。何も怖いことはない。
「そうですね。夕飯の準備ができるまで、そっとしておきましょうか」
 朝来は、何でもないような顔をして、フサヱさんに微笑んだ。フサヱさんの灰色の瞳の奥で、何かが光ったように見えた。
 屋敷の扉の周りを這うつるばらの手入れをしようと、庭仕事用のハサミを持って外に出た朝来の目に飛び込んできたのは、桜の木の下のテーブルで思索に耽る、優都の姿だった。優都は、時折桜を見上げながら、何か独り言をぶつぶつと呟き、拾った小枝で、テーブルの上に何かを書いていた。
 そうか。朝来は踵を返し、屋敷に戻ると、ノートとペンを持って庭に出た。
「優都くん、これ!」
 朝来は、ノートとペンを優都に差し出した。
 優都は、驚いたように朝来を見つめると、初めて顔を綻ばせた。
「ありがとう!」
 元気な声を出すと、優都は早速ペンを握り、ノートを開いた。ページの左上から、一切の迷いもなく、びっしりと数式を書き連ねていく。優都の足元では、うっかり白狐の姿に戻った雪夏が、ヒメオドリコソウの群れの中で眠っている。雪夏がついていれば、安心だ。朝来は、一心不乱にノートに向かう優都に微笑み、屋敷の中へ入った。
 日が沈み、夕飯の支度が終わるころ、雪夏と優都が屋敷の中に入って来た。優都が持っているノートのページは、細かい数式で埋め尽くされ、真っ黒になっていた。
「お勉強は捗った?」
 朝来が、屈んで優都に目線を合わせると、優都は目をそらさずに、満足げに頷いた。
「さあ、晩御飯を食べるわよ!」
 フサヱさんが、深緑のワンピースの袖をまくると、雪夏と優都が目を合わせて笑った。
 夕食が、屋敷の居間の大きな円テーブルに並べられた。春野菜がたっぷりと入ったクリームシチューからは、ほかほかと湯気が立ち上っている。天然酵母で発酵させたロールパンは、少し硬くて、食べ応えがある。屋敷の裏の泉の脇に群生するクレソンのサラダは新鮮そのものだ。メインのあつあつの大きな手作りハムを、フサヱさんが、テーブルの上で切り分けると、肉汁が溢れ、香ばしさが皆の食欲をそそった。
「いただきます」と三人が手を合わせると、優都も慌ててそれに倣った。
 おそるおそるシチューに口を付けた優都は、すぐに夢中でシチューを食べ始めた。十二歳の見た目に相応しい、子供らしい食べ方だ。朝来は、ほっと安心した。
「どう? 優都くん、美味しい?」
 フサヱさんが、テーブルに頬杖をついて問うと、優都は、頭を大きく縦に振った。
「そう! 嬉しいわ。たくさん食べてね」
 フサヱさんの幸せそうな顔を見て、朝来も幸せを感じた。
 朝来とフサヱさんが夕食の片付けをしていると、優都が歩み寄ってきた。
「お皿、拭きます」
「ありがとう。助かる!」
 朝来は、優都にふきんを手渡した。優都は、慣れているのか、手際よく皿を拭いていく。
 片付けが終わると、それぞれが薪ストーブの前でくつろいだ。炎が爆ぜる音が、屋敷に響く。優都は、一人掛けのソファに深く座り、先ほど書いた数式を眺めている。フサヱさんは、ロッキングチェアに座って、揺れながらレース編みを始めた。朝来は、絨毯に座り、白狐の姿で眠っている雪夏を撫でている。雪夏の真っ白な毛並みは、ふかふかとしていて、手触りは極上だ。三本ある尾がふわりと持ち上がり、寝ていた耳がぴくりと動いて、雪夏が目を覚ました。大きな欠伸をすると、雪夏は人間の姿となり、立ちあがった。
「コンサートの時間ね」
 フサヱさんが、雪夏を目で追った。雪夏は、薪ストーブの対角線上にある、茶色の古いピアノの蓋を開けると、いつものように、運指の練習を始めた。海の上をすべるような、なめらかな音色だ。優都は、目を輝かせて雪夏を見つめていた。
 雪夏が、深く呼吸して、鍵盤に指を乗せた。バッハの、ゴールドベルク変奏曲だ。冒頭のアリアが、厳かに始まる。放たれたピアノの音が、夜の静寂に飲み込まれていく。薪ストーブの炎が爆ぜる音が、はっきりと聞こえる。蝶の羽ばたきを思わせる小さな声で、自己紹介をするように、敢えてたどたどしく、アリアは進んでいく。
 アリアが終わるころ、優都が突然立ちあがり、ピアノへと走った。雪夏の右隣に無理矢理座ると、優都は指を構え、雪夏の一オクターブ上を弾き始めた。二人は息を合わせ、曲を弾き進めていく。ピアノの音が、チェンバロのような響きを得て、バロック時代につくられた楽譜に、命を吹き込んでいく。
 優都の運指は極めて正確だ。譜面も完全に暗記している。朝来は、二人のピアノを聴きながら、まるで美術館で絵画や彫刻を見ているかのような気分になった。二人のピアノの音は、極めて数学的で、整然としている。奏でられた世界は、モノクロームで、どこまでも細密で、澄んでいた。
 ゴールドベルク変奏曲を最後まで弾き終えると、二人は、同時に指を離した。
「ブラボー!」
 朝来とフサヱさんは、立ち上がって、優都と雪夏に拍手を送った。優都の耳は、照れたように赤くなっている。
「優都くん、ピアノは何歳から?」
 フサヱさんが問うと、優都は恥ずかしそうに、「三歳」と答えた。
 再び薪ストーブの前のソファに掛けた優都は、ぽつりと呟いた。
「私は、学校に行かなければならないのでしょうか」
 その発言に、屋敷の空気が、ぴんと張り詰める。
「私が混血だということと、彼らが私を標的にすることとの因果関係が、解らないのです」
「彼らって、優都くんのクラスメイトのこと?」
 朝来が優都の目を覗き込むと、優都は、朝来を見つめ返した。
「ええ、そうです。『混血のクズ』とか、『ウイルス』と言われました。殴られたり、蹴られたりもしました。けれどそもそも、混血とは、どのような概念なのでしょう。分類学では、人間は全て、ホモ・サピエンスというたった一つの種であるはずです」
 三人が、はっとして優都を見つめた。優都が人の目を見て話せない原因は、いじめだ。悪質ないじめが、優都の心を破壊していたのだ。
「あの震災の日、事態は大きく悪化しました。私が、震災の被害をあらかじめ算出して把握していたことが知れ渡りました。私は、『エスパー』と呼ばれて気味悪がられ、小学校の裏口で、クラスメイトの集団に暴行されました」
 青ざめた朝来は、たまらなくなってフサヱさんに視線を送った。フサヱさんは、静かに優都の言葉に耳を傾け続けている。
「それから、私は小学校に行っていません」
 優都の瞳は光を失い、その表情は、動かない。
「学校に行けなくなって、三年が経ちました。現世で今日は、あの震災が起こってから、ちょうど三年になる日です。今日、ついに母が狂いました。親戚や、近所に住む人たちから、悪い噂を流されたり、私が学校に行けなくなったのは親のせい、などと非難されたりしていたようです」
 泣いたらいいのに、と朝来は思った。優都に必要なのは、感情を外に出すことなのだと。けれど優都は、聞く者が苦しくなるほどに、淡々と話し続ける。
「『優都が好きな花を摘みに行く』と言って、母は近くの森に入りました。夕方になっても帰らず、私も森に入りました。その森で迷って、白い狐に出会い、後をついて、ここに辿り着きました」
 フサヱさんは、ゆっくりと息を吐くと、大きく頷いた。
「まず、お母さまは必ず見つかります。大丈夫よ。私はこれでも、森の神様だもの」
 フサヱさんは穏やかに微笑み、編みかけのレースをサイドテーブルに置いて、優都の元へ歩み寄ると、柔らかな栗色の髪に触れた。
「あなたには、特別な才能があるわ。神様に選ばれた才能がね」
 フサヱさんは、ソファの前で屈むと、優都に目線を合わせた。
「あなたの才能は、例えるなら、よく切れる剣のようなものね。その剣で、混沌とした未来を切り拓くことができるわ。けれど、同時に、罪もない人々を傷つけることもできる」
 フサヱさんが、優都の頭をゆっくりと撫でた。
「泣いたっていい。辛い環境から、逃げ出したっていい。絶望して、部屋から出られなくなったっていい。けれど、どうにかして、大人になるまで頑張って生きてちょうだい。なんとか時間をやり過ごして、大人になってちょうだい。あなたは、世界にとって必要な存在なの」
 優都の瞳に、明かりが灯ったように見えた。
「私が、必要とされている……?」
「そうよ」
 フサヱさんの迷いのない一言に、優都は虚を突かれたように沈黙した。
「私には、挑戦したいことがあります」
「聞かせてちょうだい」
 フサヱさんが、屈んだまま、前のめりになって微笑んだ。
「スモールスケールから、ラージスケールまで、全生命現象の解明に、私は心を焦がしています。陽子や電子の軌道から、生物個体の高次機能である行動までは、必ず、地続きのはずです。各階層の生命現象を繋ごうと試みるとき、私の心は踊り、時空を超えて果てしない旅をしているような感覚になるのです」
 絨毯に座って、優都の話を聞いていた朝来は、立ち上がって拍手をした。
「すごい! 優都くん、すごいよ! 私にはさっぱりわからなかったけど、優都くんは、世界の全部を解き明かそうとしているんでしょう? それってすごいことだよ! 優都くんになら、きっとできるよ!」
 朝来の澄み切った笑顔を、優都は驚いたようにじっと見つめた。優都の心に刺さっていた氷の欠片が、朝来の笑顔に照らされて、少しずつ融けていく。
 夜は更け、朝来はぎしぎしと階段を上り、優都を二階のゲストルームへ案内した。ランプの明かりが、白壁の部屋をぼんやりと照らす。どこからか、梟の声が聞こえた。優都は、天窓を見上げ、星空を眺めていた。
「私には分からない。私がいた現世の人々は、どうしてこの世界の住人のように、平和を構築しようとせず、破壊を繰り返すのだろう」
「そうだねえ。だから、優都くんが平和をつくればいいよ」
 朝来の何気ない一言で、優都の瞳が震えたように見えた。
「朝来さん」
「うん?」
「いえ、何でもありません」
 朝来は、優都にランプを手渡した。
「何かあったら、隣にいるから、いつでも起こしてね」
「ありがとう」
 朝来が静かにドアを閉めた時、優都は星空を見上げ、声もなく泣いていた。
 
 次の朝、朝来は珍しく、フサヱさんよりも早く目が覚めた。いつもの制服に着替え、髪を結ぶと、チェロを抱えて、庭に出る。外で楽器を弾くのは気持ちがいいと、何故か分かっていた。練習曲をさらっていると、優都が歩いて傍にやって来た。
「おはよう、優都くん。よく眠れた?」
「ええ、久しぶりに」
 朝日の中で微笑む優都の表情から、絶望が消えていた。
「私も、弾いてみてもいいですか?」
「もちろん!」
 朝来は、優都にチェロの構え方を教えると、手を取って弓を握らせた。まずは、指で弦を押さえない開放弦から順番に鳴らしていく。優都は筋がいい。開放弦は問題無く鳴らせる。
「そうそう、その調子!」
 そう言って微笑んだ時、朝来を強烈な耳鳴りが襲った。
 子供たちの喜んだ顔と、チェロを教えていた頃の記憶が蘇る。
 朝来は優都から手を放し、頭を抱えた。
「大丈夫?」
 優都が心配そうに立ち上がる。
「大丈夫。もう大丈夫。フサヱさんには言わないで」
「でも……」
 優都が朝来の顔を覗き込んだ時、フサヱさんの声がした。
「朝ごはんよ!」
 朝来は優都を目で促して、屋敷の中へ入った。
 朝食は、ミョウガの味噌汁、玄米ご飯と大粒の納豆、青菜とじゃこの和え物だ。優都は、次々と食事を平らげた。昨日の遠慮がちな表情が、嘘のようだ。朝来とフサヱさんは、顔を見合わせて微笑んだ。
 食事の後片付け終えると、四人は庭に出て、春の景色を楽しんだ。優都は、足元に生える野草の花弁を数え、形態の法則を計算し始めた。
 優都がノートを一ページ使い果たした時、風が、森を鳴らした。
 
 森が、開かれた
 
 優都は顔を上げて、森を見つめた。
「帰ります。母を探しに行かなければ」
「そうね。雪夏にはぐれずついて行きなさい。お母さまは必ず見つかります」
 フサヱさんが、優都の肩に手を置いた。
 優都は立ち上がると、フサヱさんを、次いで、朝来を、真っすぐに見つめた。
「私の心がサイン波状に変化しているとして、あなたはその関数の最小値を上げてくれたんです」
 朝来の頭の中が疑問符でいっぱいになった時、優都は雪夏と共に、森へと歩き始めた。
「お気をつけて! 素晴らしい人生を!」
 優都は振り返らずに、ひらりと手を振った。優都と雪夏は、木の門をくぐり、森の中へと消えた。
 見送りを終えた朝来が机の上に目を遣ると、真っ黒になるまで数式で埋め尽くされているノートが、開いたままになっていた。
「優都くんがさっき言っていた、関数とか、最小値とか……。さっぱりわからなかったんですけど、どういう意味なんでしょうか?」
 朝来がぽかんとした顔で呟くと、フサヱさんは、ふふ、と笑った。
「さあねえ。どういう意味かしらねえ」
「え? フサヱさん、分かるんですか? 教えてくださいよ!」
「ふふ。秘密よ、秘密」
「えー!」

 雪夏が帰って来たのはその日の夜だった。三人は、薪ストーブの前で、手を取り合って記憶を共有した。
 優都は、森で無事に母親を見つけることができた。一年後、優都は、父の母国であるフランスに、家族と共に移住した。次々と飛び級をし、早々に大学院へと進んだ優都は、地震予知を専門に研究し、世界中を飛び回ってデータを収集した。博士号を取得し、新進気鋭の若手研究者として、優都は世界に羽ばたいた。
「優都くんは、これからもっと力を付けて、世界中の人々を救う存在になるでしょうね」
 フサヱさんは、目を細めて静かに笑った。
「そう言えばね、朝来ちゃん。優都くんが言っていたの。あなたが焼いたパンケーキは、お母さんのパンケーキよりも美味しかったって」
「わあ! 嬉しいです!」
 朝来がぱっと顔を輝かせると、フサヱさんは朝来を横目でちらりと見て、にんまりと笑った。
「もう。朝来ちゃんってば、ほんと鈍いんだから」
 朝来の頭の中に、再び疑問符が溢れた。
「ここでのことは夢になってしまうけれど、いい夢だと嬉しいなあ」
 朝来は呟くと、優都が残していったノートを一ページ切り取った。そのページには、左上からびっしりと、一度も修正せずに数式が書き連ねられていた。なんだか抽象画みたいだと思って、朝来は自室の壁に、その芸術を飾った。

<第五話に続く>
 
 第五話:それでも、朝は来る

 
 第三話:命を捨てないで


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