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『神隠しの庭で、珈琲を』 第三話:命を捨てないで #創作大賞2024

第三話:命を捨てないで

 常庭とこにわに自生する植物たちは、眩しい午後の光を全身で浴びて、伸び伸びと生い茂っている。エンゴサクの青色が、カタクリのピンク色が、ルピナスの紫色や白が、他の様々な草花の色彩と、争うことなく調和している。
 洗い立てのシーツとベッドカバーが、陽光の中ではためいている。ばらの香りを練り込んだ石鹸の香りが、風に乗って漂う。フサヱさんと朝来あさきは、桜の老木の下にある、杉の一枚板のテーブルで珈琲を飲みながら、満足げに洗濯物を眺めていた。穏やかな時間が、流れていく。
「洗濯物が乾いていくのを見ながら、珈琲で一息つくのって、最高よねえ」
 うっとりと呟くフサヱさんは、リネン類を洗濯することが大好きだ。今日のフサヱさんは、淡い菜の花色の、麻の着物を纏っている。帯はすっきりとした生成りで、着物の色との対比が美しい。
「着物、いい色ですね」
「そう? ありがとう」
 フサヱさんは、嬉しそうに着物の袖を翻した。一方の朝来は、コットンの白シャツと紺のテーパードパンツという、「制服」姿だ。
「フサヱさん、その着物、ご自分で手縫いされたんですか?」
「そうなの。昔作ったものなのよ。私、意外と器用でしょ?」
「意外、じゃないです。かなり器用。着付けまでできるなんて、素敵ですよ」
 フサヱさんは、くるりと目を回すと、朝来の耳元で囁いた。
「この着物、実は上下セパレートなの。洋服みたいに着られて、便利なのよ!」
「ええ!?」
 二人は、顔を見合わせて、大笑いした。
 ひとしきり笑うと、また珈琲を味わう。
「美味しいなあ」
 この平和と幸せが奇跡であることに、朝来はまだ気づいていない。
「フサヱさん。私、ここに来る前のことは、全部忘れてしまったと思っていたんです。ほら、名前も、フサヱさんに呼んでもらうまで、忘れていたでしょう?」
 白いルピナスに止まっていたマルハナバチが、後ろ足で動き回ると、ぶん、と羽音を立てて飛び立った。
「けれど、琴音さんが、アメリカの同時多発テロ事件のことを話した時にね、思い出したんです。その日は、私が生まれた日だって」
 フサヱさんは、穏やかな表情を崩さずに、朝来の言葉に耳を傾けている。
 慈愛に満ちた陽光が、常庭の植物たちに降り注ぐ。光の筋の中を、白や黄色の蝶が、ふわり、ふわりと舞っている。桜の老木に止まった小鳥たちが、春を歌い、お互いを認め合う。
雪夏せつか、今日はお昼ご飯の後に出かけましたよね。そろそろ、誰かを連れてくるんじゃないかな」
 朝来が森の方に目を遣ると、フサヱさんは頷いた。
「朝来ちゃん。なかなか勘が鋭くなってきたじゃない。その通り。もうじきお客様が見えるわ」
 フサヱさんが言葉を切ったのと同時に、ごうっと風が立ち、森を鳴らした。

 森は、開かれた。

「お客様ね」
 フサヱさんは、目を細めて立ち上がり、森を見つめた。
 常庭をぐるりと囲む深い森の中から、木の門をくぐって現れたのは、三本の尾を持つ白狐の雪夏と、二十代後半くらいの、若い女性だ。女性は、継ぎはぎだらけのくたびれた茶色の着物と、紺色のもんぺを纏っている。襟足でひとまとめにされた髪は、汗で乱れているように見えた。
 狐は、高く跳びあがると、少年の姿に変わって着地した。朝来と同じ、コットンの白シャツと紺色のテーパードパンツという「制服」姿の雪夏は、爽やかに微笑むと、女性の手を引いて常庭へとエスコートする。雪夏の白銀の髪の毛が、午後の太陽の光を浴びて輝いている。とても綺麗だ、と朝来は思った。
 何が何だか分からない様子で、戸惑っていた女性は、その黒く大きな瞳で、桜の老木を見上げると、立ち止まった。肌は白く、意思のある眉をしている。知的な印象の、美しいその人は、ずいぶんと疲れているように見えた。
「ようこそ、常庭へ!」
 フサヱさんは、笑い皺だらけの顔で微笑むと、女性に声をかけた。しかし、女性は言葉を失ったように、動かない。
 声なき空間を、白い蝶がふわりと横切った。
 女性は呟いた。
「ここは、きっと常世とこよなのね。夏なのに、桜が咲いているもの。私は、死んだのかしら」
「そんな! 違いますよ! ただ、ちょっと迷い込んだだけで」
フサヱさんは、動揺する朝来を目で静かに制すると、女性の前に歩み出た。
「仰る通り、ここは常世の入口、『常庭とこにわ』よ。ここは、常世に迷い込んだ人に休んでもらうための場所なの。あなたは生きています。森で迷ったのね?」
 フサヱさんが、女性の目を見ると、女性は、こくりと頷いた。
「あなたたちは……?」
 女性は、三人を代わる代わる見た。
「私は、ここ常庭でアシスタントをしている、朝来といいます。あなたをエスコートしてきたのは、ここにいる雪夏。フサヱさんは、この森の神様です。あなたは神隠しに遭ったんですよ」
「『アシスタント』に、『エスコート』ね。懐かしい言葉だわ」
 女性は、朝来の目を射るように見つめた。
「懐かしい言葉?」
 首を傾げる朝来を横目で見ると、フサヱさんは、一歩進み出た。
「やはり、あなたがいた世界で、日本は戦争に負けたのね?」
 女性は、驚いたようにフサヱさんを見つめると、頷いた。
「そう。今日は、昭和二十年、八月十五日です」
 女性は、まるで魂の抜け殻のように、空を仰いだ。高く、どこまでも青い、常世の空を。
「日本は、戦争に負けました」
 呟くと、女性の頬に一筋、涙が流れた。
「申し遅れました。私 、紺野キヨです。教師をしています。二十七歳です」
 すぐに涙を拭うと、キヨは、気丈にも微笑んで見せた。その時、朝来の頭の中の雪嵐が、一瞬晴れた。朝来は、自分が二十五歳で常庭に来たのだと、思い出した。
「キヨさん、とにかく、一息つきましょう」
 フサヱさんが、キヨの肩に触れ、桜の木の下のテーブルへと案内した。
「 待っていて。美味しい珈琲を淹れるから」
 フサヱさんが屋敷の中に入ってしまうと、朝来は落ち着かない気分になった。助けを求めるように、向かいに座る雪夏を見ると、雪夏は、にこにことほほ笑みながら、テーブルの上に散った、桜の花びらを数えていた。
 キヨは、疲れ切った表情をして、膝の上で両手を握っている。今、キヨに何を話したらいいのだろう。
「常世の空に昇る月は、満ち欠けをするの?」
 キヨは、顔を上げると、朝来の方を向いて、穏やかに問うた。気まずいと思ったのは、朝来の取り越し苦労だった。
「はい。現世うつしよと同じように、月は満ちて欠けます。けれど、季節が進んで、春が終わることはないんですよ」
「そう、不思議ね。学校で教えている子供たちにも、ぜひ話してあげたいわ」
 キヨは、疲れた顔をしながらも、目を輝かせた。探求心の強い人なのだと、朝来はキヨに好感を持った。
 ごりごりと、心地の良い音が聞こえる。フサヱさんが、珈琲豆を挽いているのだ。その音に包まれ、テーブルを囲む者たちの緊張が解けていく。
「キヨさんは、どんなお子さんだったんですか? 先生になるくらいだから、お勉強は得意でいらしたんですよね?」
「いいえ。小さい頃は、全然。むしろ、すぐに教室を飛び出してしまう、問題児だったの」
 キヨは、肩をすくめ、小さく舌を出すと、おどけて笑った。
「教室に籠って教科書を読むより、外に出て、草や木、花や虫、小鳥や雲なんかを観察するのが好きだったわ」
 朝来は、感嘆した。
「昔のキヨさんは、小さな科学者だったんですね」
「ええ、そうかもしれないわ」
 キヨが嬉しそうに頷いた時、屋敷の台所にいるフサヱさんが、朝来を呼んだ。立ち上がろうとした朝来の肩に、雪夏が触れる。
「僕が、取りに行く」
 雪夏は呟くと、微笑んで屋敷の中へ入って行った。
「あの子、年は幾つ?」
「雪夏ですね。実は、私も知らないんです。十七歳くらいに見えますけど、実は百歳を超えているのかも……」
「ええ? さすがは狐ね!」
 キヨの楽しそうな顔を見て、朝来は安堵した。
 雪夏は、フサヱさんと共に、この常庭に暮らしている。きっと、朝来が想像できないくらい、ずっと昔から。
「珈琲を淹れたわよ!」
 フサヱさんと雪夏が、お盆に珈琲とクッキーを乗せて、陽光の中を歩いてくる。
「今日は、この桜のクッキーに合うように、少し酸味のあるブレンドなの」
 クッキーには、常庭の桜の花の塩漬けが入っている。ほんのりと塩が効いている、朝来のお気に入りのクッキーだ。キヨ以外の三人が、珈琲を飲み、ほっと息を吐いた。クッキーに手を伸ばそうとして、朝来は、キヨが俯いていることに気が付いた。
「こんな贅沢品、食べられない。私よりも、お腹を空かせた甥っ子と姪っ子に食べさせてあげたいわ」
「ご兄弟がいらっしゃるのね?」
 フサヱさんが、ゆっくりとキヨに言葉をかける。
「八つ離れた兄がひとり。けれど兄は、出征して、南方で戦死しました。義理の姉は、三月の東京大空襲で、亡くなりました。親を亡くした兄夫婦の子供、甥っ子と姪っ子は、次の十月で五歳になる双子です」
 朝来は、言葉を失った。背筋が、ぞくりと凍る。
「今、私の母と私とで、子供たちを育てています。私の稼ぎで、なんとか最低限は食べさせられているけれど、これからどうなるのか、すごく不安で……」
 朝来とキヨが生きた時代は大きく異なっている。現世では交わることのない時間を生きた二人が、ここ常庭で出会ったのだ。朝来は教科書を読んで知っていた。戦争に負けた日本が、やがて高度経済成長期を迎えることを。けれど、その知識を、決してお客様に言ってはならないと、フサヱさんからきつく言われている。常庭の掟だ。
「やっぱり、私、帰ります。街に戻れる道を教えてください。それからこのお菓子、持って帰らせて下さい」
 キヨは、立ち上がって頭を下げた。キヨの向かいに座っていたフサヱさんは、キヨに座るよう、目で促すと、笑いかけた。
「キヨさん。今、森は閉じているわ。今森に入っても、現世へ戻る道はないの。暫く常庭でゆっくりしていってちょうだい」
「でも……」

「キヨさん。あなたの話を聞かせてちょうだい」

 しなやかで強いフサヱさんの言葉に、キヨは頷いて、ゆっくりと椅子に掛けた。
 太陽は、軌道上をゆっくりと進んでいく。日差しが、西の方角に傾いてきた。
「今日の……昭和二十年八月十五日、正午の、玉音放送を聴いたんです。日本が、戦争に負けたって。老いた母と二人、正座したまま泣きました。甥っ子と姪っ子は、何が起こったのか、まだよくわからないようでした。放送が終わってすぐ、私は近くにある古い森に走りました。昔、兄によく遊んでもらった、思い出の森です。兄の魂が、森にいるような気がして。けれど、その森で、迷ってしまって」
 キヨの声は、はきはきとしていて、よく通る。きっと、学校で授業をしているからだろう。聞いていて心地の良い声だと、朝来は思った。
「兄に、日本が負けたことを報告したくて。それから、私の罪を償うために、森に入りました」
「罪を償う? どういうこと?」
 フサヱさんの灰色の瞳が、光ったように見えた。
「私は、教師です。……いいえ、違うわ」
 キヨは、俯くと、頭を振った。
「私は、教師の皮をかぶった、臆病な軍国主義者でした」
 キヨの瞳が、フサヱさんを見つめ、震えた。
「何人も。何人もの教え子たちを、私は笑って戦地へ送り出しました。お国のために、尊い使命を果たして来いと、身を挺して敵軍を駆逐せよと、可愛い生徒たちを洗脳して、戦争へ向かわせたのです」
 キヨの瞳が、涙に飲み込まれていく。
「ひと月ばかり前のことです。かつて私が教えていた生徒のお母様から、その子が書いた手紙を見せて頂きました」
 白い蝶が、テーブルの上のキヨの右手にとまり、前足で顔をこすると、まるで重さなんてないように、ふわりとやわらかに飛び立った。
「遺書でした。そこには」
 キヨの声に、嗚咽が混じった。
「『自分も、紺野キヨ先生のような教師になりたかった』と書いてありました。その子は、十八歳で特攻隊に入って、南の海で、敵の空母に体当たりして死にました」
 朝来は気づいていなかった。聡明な眼差しの奥で、キヨが抱えていた苦しみに。誰の手も届かない場所で、その苦しみが、いつまでもキヨの心を蝕み続けていることに。
「私の生徒にも、空母に乗船していた異国の兵士にも、母親はいるんです。敵も味方もない。皆同じ人間なんです。そのことに、どうして気づかなかったのか」
 キヨは肩を震わせると、すぐにまた、涙を拭った。泣き崩れたっていいのに、キヨは背筋を伸ばして、真っすぐにフサヱさんを見つめた。
 太陽は西の端へと傾き、橙色の斜陽が、キヨの表情に陰影を与える。キヨの気丈さに、朝来は涙を堪えた。
「その子はちょうど、あなたくらいの年よ」
 キヨは、雪夏の中に、無くなった教え子の姿を見出すように、静かに呟いた。
「森で、死に場所を探していました。兄や、教え子たちが死んで、戦争が終わって、今までのことが嘘だったみたいに、私だけがのうのうと生きているなんて、おかしいもの」
 フサヱさんは、立ち上がると、キヨのもとへ駆け寄り、キヨを思い切り抱きしめた。震えていたキヨの瞳が、大きく開かれた。
「キヨさん。もう独りで苦しむのはおしまい。泣きたいだけ、泣きなさい」
 その言葉がキヨを解き放った。キヨは、フサヱさんの腕の中で、塞き止められた水門が決壊するように、大きな声で泣いた。
 朝来も、静かに泣いていた。隣を見ると、雪夏は、いつもの穏やかな表情で、キヨを見つめていた。
 赤い夕陽が、森に沈んでいく。沈む直前の夕日のきらめきは、特攻隊員となり死んでいった、キヨの教え子の心の叫びのようだと、朝来の心が、また痛んだ。
「キヨさん。今晩は、ここに泊まって行きなさい」
 フサヱさんがゆっくりと優しい声で囁くと、キヨは、あどけない子供のように、こくりと頷いた。キヨの分の珈琲が、マグカップの中で冷えていた。
 朝来は、屋敷の扉を開けた。壁の蔦と、扉の周りを這うつるばらの香りが、夜気に溶けている。キヨを屋敷の中に案内する。常庭は、夜になると一気に冷えるので、部屋の中の空気は冷たい。雪夏が、早速、薪ストーブに火を入れた。
「不思議なお屋敷ね。なんだか魔法がかかっているみたい」
 石壁を埋め尽くす古い書棚や、円い大きなテーブル、薪ストーブの傍の、上等な布が張ってあるソファなどは、たしかに不思議な雰囲気を醸し出している。キヨが屋敷の中を見回しながら呟くと、フサヱさんが笑った。
「そうかもしれないわね。ここは常世だもの。それじゃあ、私は魔法使いってことね」
 朝来は、キヨに、薪ストーブの前の一人掛けのソファを勧めた。
「炎をみていると、気持ちが穏やかになりますよ」
 キヨは、朝来に礼を言うと、ソファに腰かけた。
 フサヱさんが、着物の上からたすきをかけて、夕食の準備に取り掛かった。朝来も、台所へ向かう。
 二人が準備を始めると、キヨが立ち上がり、ぱたぱたと台所にやってきた。
「あの、もしよければ、お手伝いさせて下さい。私、お手伝いしたいんです」
 キヨは、また頭を下げた。
「あら、それじゃあ、ジャガイモの皮をむいていただけるかしら?」
 フサヱさんが、楽しそうに言ってジャガイモを手渡すと、キヨは嬉しそうに、土だらけのジャガイモを両手で包んだ。
 フサヱさんとキヨが、並んで一緒に料理を作っている。キヨの表情が、少しずつ明るくなっていく。フサヱさんはいつも、相手に気を遣わせずに笑顔を引き出す。朝来も、フサヱさんのさりげない思いやりに、何度救われたことだろう。
「外で、お魚を焼いてきます」
 朝来は屋敷の玄関を出て、裏庭へと回った。ランプの明かりを頼りに、七輪で、塩を振った鮎を焼く。
 団扇で七輪に風を送りながら、朝来は、物思いに耽った。キヨは、家族や、仕事のことを話していた。朝来にも、現世ではきっと家族がいて、仕事があるのだろう。それらを思い出そうとしても、記憶はやはり、頭の中の雪嵐の中から出てきてはくれない。
 自分には、どんな家族がいて、常庭に来る前は、何をして生きていたのだろう。「いい思い出も、悪い思い出も、どんなことでもいいから、思い出すことができたらいいのに」と呟いて、朝来は、自分が泣きそうになっていることに気が付いた。
 フサヱさんは、「泣きたいときには、泣きたいだけ泣きさない」とよく言う。夜の闇の中で、朝来は少しだけ泣いた。
 ふと気配を感じて、顔を上げると、雪夏が朝来を見下ろしていた。雪夏の金色の瞳が、ランプの炎を映している。その瞳を見ると、いつも朝来の心は凪ぐ。
「雪夏。ありがとう。もう大丈夫」
 この子は、ほとんど何も言わないけれど、実はとてつもなく優しいのだと、朝来は知っている。
 焼き魚を白い大皿に乗せ、台所に向かうと、夕飯が出来上がっていた。雪夏が、てきぱきと配膳をする。朝来も、土鍋の蓋を開け、ご飯を茶碗に盛り付けていく。
「土鍋を開けた瞬間の、ご飯の匂いがする湯気ほど幸せなものって、ないわよねえ」
 フサヱさんが感激すると、キヨはくすくすと笑った。
 居間の大きな円テーブルに、夕飯が並んだ。肉じゃが、鮎の塩焼き、菜の花のお浸し、ひじきと切り干し大根の煮物、玄米ご飯だ。
「いただきます」
 四人は手を合わせると、目を閉じた。
「さあ、食べるわよ!」
 フサヱさんが腕まくりをすると、なんだかおかしくて、朝来とキヨは顔を見合わせて笑った。
「こんな豪華な食事、いつぶりかしら」
 キヨは、食卓を見渡すと、申し訳なさそうに呟いた。フサヱさんは、小さな茶色の壺を開けると、梅干しを一粒、箸でつまんで、キヨの玄米ご飯の上に乗せた。
「この梅干し、とっても酸っぱいんだけど、その分疲れが取れるのよ」
 フサヱさんにそっと頭を下げると、キヨは、梅干しを箸でちぎり、ご飯と一緒に口へ運んだ。キヨの目が、輝く。
「美味しい! すごく美味しいです!」
「そうでしょ? キヨさんに美味しくいただいてもらうために、腕によりをかけて炊いたご飯ですもの」
 フサヱさんは、にっこりと笑った。
「お魚も、どうぞ」
 朝来に促されて、キヨは鮎に箸をつけた。
「身がほくほくしていて、塩味もちょうどいい。すごく美味しいわ!」
 キヨのとびきりの笑顔を見て、朝来も幸せを感じた。誰かが幸せそうに笑った顔を見ると、こんなにも穏やかな気持ちになれるのは、どうしてだろう。四人は談笑しながら、ゆっくりと夕飯を楽しんだ。
 夕飯の片付けを終えると、皆が薪ストーブの前に集まり、くつろいだ。炎を見つめていたキヨが、ぽつり、と呟いた。
「戦争が終わったなんて、信じられません。これから、日本はどうなっていくのかしら」
 不安そうな顔をしたキヨが、ふと、壁一面の本棚を見渡した。
「こんなにたくさん本があるなんて、素敵」
 キヨの視線が、一冊の本に止まった。
 “The secret garden”
 キヨの発音はとても滑らかで、朝来は少し驚いた。
「そうよ。『秘密の花園』。英語の原文の本ね」
 キヨは、立ち上がると、「秘密の花園」を手に取った。ぱらぱらとページを捲る。
「戦争が激化する前、兄は、大学で英文学を研究していたんです。幼い頃、兄から英語の手ほどきを受けました」
「まあ、お兄様は文学者でいらっしゃったのね」
「ええ。家にも、同じ本がありました。懐かしいわ」
 キヨは、ページを捲りながら、旧友に再会したように微笑んだ。その横顔を見て、朝来の心が動いた。
「私が子供だった頃、近所の洋館に、イギリス人の家族が暮らしていたんです。私と同い年の女の子がいて」
 キヨの声が、明るさを取り戻していく。
「その女の子と、仲良くしていました。兄に習った覚えたての英語を使って、会話をしました。私が本好きだって言うと、英語の本を、何冊でも貸してくれました。『秘密の花園』もそのうちの一冊です」
 キヨの目に、光が戻って来る。
「自然が好きだって言ったら、その子が、博物学の本を貸してくれました。その本がとても面白くて。その本を読んだ時から、学者になりたいって、夢を見るようになったんです。教室を飛び出してばかりの、問題児だったのだけれど、それからは、勉強にのめり込みました。学ぶことが、とても楽しくて」
 キヨの両親は、キヨの兄の教育には熱心だったが、女の子であるキヨにまでお金をかける余裕はなかった。それでも学問を志したキヨは、猛勉強の末、師範学校への入学を決めた。
 キヨが教師になることを、誰よりも喜んだのは、そのイギリス人の少女だった。しかし、キヨが師範学校を卒業する頃、国際情勢は悪化し、イギリス人の一家は日本を去った。ほどなくして、英語は禁止され、高等小学校は国民学校へと看板を塗り変え、教育の目的そのものが、根底から軍国主義へとすり替わっていった。
「私はただ、子供たちに、学ぶことの素晴らしさを伝えたいだけだったのに」
 キヨは、記憶を手繰るように遠い目をして、静かに囁いた。
 薪ストーブの炎が赤々と爆ぜる音だけが、屋敷に響いていた。
 雪夏が立ち上がると屋敷の居間を横切り、古い茶色のピアノの蓋を開けた。指を構えると、雪夏は運指の練習を始めた。体中の歪んだ骨が、ばきばきと音を立てて整っていくような音だと、朝来は背筋を伸ばした。
 雪夏は、一呼吸すると、ピアノを奏で始めた。
 イングランド民謡の、グリーンスリーブスだ。
 その最初の旋律を聴いた時、朝来の脳裡に映像が浮かんだ。朝来が小さな手をとり、楽器の弓を持たせている。あの弓は。
 朝来は二階の自室へと駆けあがった。ベッドと壁の間に立てかけていた、大きな荷物の封印を解く。朝来が背負って常庭に持ってきた、チェロだ。弓を張り、松脂を滑らせると、階下へと急ぐ。
 雪夏は、一度演奏を止め、朝来を待ってくれていた。朝来は、椅子に腰かけると、エンドピンを絨毯に刺し込み、調弦をした。C、G、D、A。どの弦も、思っていたよりも外れていない。
 準備ができたことを、雪夏に目で合図する。雪夏が、グリーンスリーブスの伴奏を奏で始める。朝来は弓を弦に乗せた。
 憂いを帯びたチェロの音色が、屋敷中の空気を震わせていく。チェロを弾く朝来の頭の中の雪嵐が、晴れていく。朝来は、子供にチェロを教えていた。そうだ、あれは十二月で、音楽教室の、クリスマスコンサートの練習をしていた時だった。朝来は、チェロの先生をしていたのだ。
 二度目の主旋律で、朝来はオクターブを一つ上げた。唸るような、切なくも温かいチェロの音色に、皆が酔いしれていく。
「キヨさん、歌って!」
 雪夏が、朗々と声を上げた。
 キヨは、頷いて立ち上がると、大きく息を吸った。
 “Alas, my love, you do me wrong. To cast me off discourteously.”
 キヨは、完璧な発音で歌った。その声は、高らかに透明で、清らかな小川のように澄んでいた。キヨは、歌いながら、涙を流していた。
 曲が終わると、フサヱさんは立ち上がり、拍手をして、三人に歓声を送った。
「素晴らしかったわ! 私、泣いちゃった」
 フサヱさんが、目尻の涙を指でさっと拭った。
「キヨさん、英語の歌も歌えるのね」
 フサヱさんが、もう一度「ブラボー」と歓声を送る。
「イギリス人の家族の、クリスマスパーティーに招待されたときに、覚えました。ヴァイオレットっていう女の子の家の」
 キヨは、俯くと、肩を震わせた。
「ヴァイオレット。会いたいなあ」
 誰にも触れられない場所で、キヨの心を蝕み続けてきたものが、ようやく涙になって、外にあふれ出た。いつか、戦争によって引き裂かれたキヨとヴァイオレットの時間軸が交わる時は、来るのだろうか。朝来は奥歯を噛んだ。キヨが言っていたとおり、人間には敵も味方もない。全ての人が、等しく尊厳を有するのだ。
 朝来は、涙を堪えてキヨの背をさすった。フサヱさんと雪夏が、二人を温かく見守っていた。
 夜が更けた。朝来は、キヨと一緒にぎしぎしと階段をのぼり、キヨを屋根裏部屋のゲストルームへと案内した。
「太陽の匂いがするわ」
 キヨが、ふかふかとした布団を撫でて、優しい声で呟いた。
「キヨさん、見てください。星が綺麗ですよ」
 天窓を見上げた朝来の横で、キヨも星空を眺めた。
 幾億もの金や銀の星々が、それぞれのリズムで呼吸するように明滅しながら、暗い夜空を照らしていた。暫し、二人は何も言わずに星空を眺めた。
「星を見ると、戦争で亡くなっていった生徒たちを思い出すの。きっと、あの子たちは綺麗な星になって、この夜空のどこかにいるんだわ」
「キヨさんはお優しいから、そんな風に仰るんですね」
 朝来の言葉に、キヨは少し驚いたようだった。
「何かあったら、隣の部屋にいるので、いつでも起こしてくださいね」
 朝来は、キヨにランプを手渡した。
「朝来さん」
 朝来が振り向くと、キヨの瞳はランプの明かりを映し、濡れていた。
「ありがとう」
 キヨは、その夜、久しぶりにぐっすりと眠った。

 夜は明けた。目を覚ました朝来の耳に、台所仕事の音が届く。慌てて制服に着替えた朝来が台所に降りると、キヨがフサヱさんを手伝っていた。
「すみません! また寝過ごしました」
「いいえ。私が早起きなだけ」
 振り返って笑ったキヨの顔から、疲れが消えていた。
「せっかくだから、外で朝ご飯を食べない?」というフサヱさんの提案を、三人は快諾した。
 常世の朝は、澄んでいた。小鳥たちの歌が、朝を告げる。昨日沈んだ太陽は、また昇って東の空で輝いている。夜のうちに植物たちが吐き出した香りが、空気の中に溶け込み、肺を爽やかに満たす。
「気持ちのいい空気」
 キヨは、心地よさそうに目を閉じた。
 朝来と雪夏が、桜の老木の下のテーブルに、朝食の配膳をする。
「いただきます」
 四人は同時に手を合わせ、目を閉じた。
 朝食は、梅干しのおむすびと、ナラタケという茸とワラビの味噌汁だ。おむすびを頬張った四人は、それぞれが幸せそうに笑った。おむすびには、きりりと塩が効いている。新鮮な海苔はしっとりとご飯を包んでいて、ご飯は固すぎず、柔らかすぎないように握られている。味噌汁を一口飲んで、朝来は、「ぷはー」と目を閉じた。
「キヨさん、食後の珈琲はいかがかしら? 私の自慢の一杯を、ぜひ味わってほしいわ」
キヨは、「はい、ぜひお願いします」と頷くと、ふっと息を吐いて、微笑んだ。
 フサヱさんが台所で豆を挽いている間に、朝来は水瓶を持って、屋敷の裏の泉に向かった。泉の直径は、大人の十歩ほどだ。水底からは、冷たい水がこぽこぽと湧いている。青く澄んだ泉の水面が、周囲の白樺の幹の白と、朝の光を映して輝く。泉の奥にある深い森に立ち入ってはいけないと、フサヱさんからはきつく言われている。
 朝来は、水を手で掬って飲んだ。体の中に、冷たさとまろやかさが沁みわたっていく。水瓶に水を満たすと、朝来は台所へ急いだ。
「珈琲を淹れたわよ!」
 人数分の珈琲と、オレンジピールが入ったクッキーを、朝来と雪夏がテーブルに並べる。それぞれが席に着き、食後の珈琲に手を伸ばした。
 珈琲を一口飲んだキヨは、黒い瞳を輝かせた。
「いい香り。すごく美味しいです!」
「常世の魔法がかかっているのよ」
 フサヱさんが、嬉しそうに頬杖をつく。
 キヨは、暫くマグカップの中を見つめていた。内なる世界で考えを巡らせていたキヨは、顔を上げると、三人を交互に見た。
「私、自分なんてこの世からいなくなってしまえばいい、って思っていました。けれど気づいたんです。戦死した生徒たちは、私の死を決して望んだりしない。あの子たちはとても優しいの。きっと、今を生きる生徒たちに、自分たちの分まで、学ぶことの素晴らしさを伝えて欲しいと、そう思っているはずなんです」
 キヨは、前を向いた。キヨの顔に、希望の笑顔が広がる。
「この空のどこかで、あの子たちは私を見守っていてくれているんだわ」
 キヨは、目を潤ませて、天を仰いだ。
 ごうっと風が吹き、森の木々を鳴らした。

 森が、開かれた。

「帰ります」
 キヨの笑顔が、眩しい。
「キヨさん。大切なことを教えてくれて、ありがとう」
 フサヱさんが、キヨを抱きしめた。
「キヨさん、お気をつけて。素晴らしい人生を!」
 何度も何度も礼を言い、頭を下げたキヨは、雪夏にエスコートされ、木の門をくぐり、森へ入った。
「キヨさんは、きっと、これからも沢山の子供たちを未来へと教え導くでしょうね」
 フサヱさんは、静かに目を細めた。
「キヨさんの中で、常庭での出来事は、どんな夢になるんでしょうね」
「そうねえ。きっといい夢よ」
「キヨさんに、フサヱさんの珈琲を飲んでもらえてよかったです」
 朝来の胸の中が、ぽかぽかと温かくなっていく。
「さあ、朝来ちゃん、洗濯をするわよ! リネン類を持ってきてちょうだい」
 朝来は笑って頷くと、屋敷の中へと駆けた。

 その夜遅くに、雪夏が帰って来た。雪夏が両手を差し出すと、フサヱさんと朝来は、その手を取り、雪夏と記憶を共有した。
 キヨは、終戦から五年後、大学に赴任してきたイギリス人の植物学者と結婚した。翌年、長男の春太郎が生まれた。産休を一年取って復職したキヨは、教師として、子供たちに、平和の尊さ、学ぶことの楽しさを教え続けた。
 教師を定年退職すると、キヨは、学習ボランティア講師として、困窮した家庭の子供たちに勉強を教えた。「おばあちゃん先生」と呼ばれ、子供たちから慕われ続けたキヨは、八十七歳の時、突然の脳出血でその生涯を閉じた。キヨの葬儀には、沢山の教え子たちが参列した。

 自室の天窓から夜空の星を眺めて、朝来は、命について考えていた。自分の命と交差する、様々な時代を生きた命。命が尽きれば、キヨが言ったように、その命は、夜空の綺麗な星となって輝き続けるのだろうか。
 自分という存在は一体、何だろう。きっと、様々な命に支えられて、自分は今、生きている。けれど、自分を支えてくれた命について、今の朝来は思い出すことができない。
 それでも少しだけ、思い出せたことがある。昨日の晩、突然浮かんできた、断片的な記憶だ。記憶の中で、朝来は小さな手に弓を握らせていた。
「私は、チェロの先生だったのかなあ」
 そう呟くと、朝来は、満天の星空の下で、眠りに落ちていった。
 生きているということは、とても不思議な奇跡だ。

<第四話に続く>

第四話:あなたは、この世界に必要


第二話:母であり、病人である前に:


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