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幼い日をしまって / チあき

 この小説は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。


 真也がそのぬいぐるみと出会ったのは、なんでもないような夏の日だった。彼の母からのプレゼントだった。その日が誰かの誕生日だったというわけでもなく、もしかしたら母の、本当にただの気まぐれだったのかもしれない。
 自分がいくつだったのかすら、そのうち忘れてしまう。犬を模した布製のキャラクターが真也の胸にそっと抱かれる。ただ、この陽だまりのような手ざわりだけはこの肌に残り続ける。そんな予感がしていた。
 長さを調節される前の柔らかなベルトが、真也の肩からぶらりと下がる。ぬいぐるみは肩掛けカバンだった。外に出かける時もずっと大好きなぬいぐるみがそばに付いてくれる。母の粋な計らいだった。新品のワクワク感を肩に下げたけた真也は、その瞳にめいっぱいの光をともした。今なら神様にだってなれる気がした。
「このまま遊びに行っていい?」
「もちろんともさ」
 母は息子の好むものを理解していた。ごっこ遊び、それも男の子にしては随分とメルヘンなものが好きな子だ。その相手をしてやるのはもはや毎日のルーティンだった。目に映るものすべてが彼のお話の登場人物で、ぬいぐるみはもっぱらメインキャラを担っていた。それを抜きにしても真也は可愛らしいもの、癒されるものにどんどん飛びついていく少年だ。これらの好みはおおかた母の遺伝子からかもしれないが、ゆえに彼の家には数十にも及ぶぬいぐるみが肩を並べている。そしてそれらすべての相手を、真也はこなしている。
「今日からお出掛けの時はロンが一緒だからね。ロン、真也のことお願いね」そう言って母は息子とぬいぐるみの頭を順に撫でた。ロンはこのぬいぐるみの名前だ。もともと真也が大好きだったキャラクターだ。
 その日を境に真也たちの日常がひとつ新しくなった。こう周りが聞けば、ぬいぐるみ一つでと言って笑うかもしれない。けれどぬいぐるみ一つで日常が変わるのが真也という子供だった。それも今度のは外に連れて行ける。ただのぬいぐるみが一つ増えることとは、少し話が違う。
 ある日にはロンと二人で、祖母の家まで遊びに行った。「あら、可愛らしい」と真也の新しい相棒を迎え入れてくれた祖母は、彼が遊びにきた時には決まって駄菓子を出してくれた。「夜ご飯もちゃんと食べること」という約束のもとに出されたこの小さなぜいたく品を、なんとかしてロンにも分け与えられないかと何度も頭をひねった。背中についた小さなファスナーにベビースターラーメンをひとつまみ入れてみようかと考えたりもしたが、それでロンの喜ぶ姿は思い浮かべられなかった。
 またある日にはロンと二人で、行きつけの児童館に遊びに行った。遊具に図書館に体育館と、あとはゲーム機さえ足せば子供たちにとって夢の楽園が完成するほど充実した施設だ。それに立地の良さも相まって、周辺の小学生たちにとって児童館は絶好の溜まり場だった。時折ばったり出くわす彼の友人たちは、真也が肩から下げるぬいぐるみを物珍しそうな目で見ていたが、彼をはやしたてる理由にはならなかった。幸いにも、友人の中に心の貧しい者はいなかった。まだ歳が十の位も知らないほどに無垢な子供たちだった。
 周囲からロンに興味の視線が向けられていたことを、真也は心から誇りに思った。誇りに思うと同時に、これからロンが世界に溶け込んでいくことを夢に見た。このさき中学生、高校、大学、大人になっていって、隣にはいつもロンがいる。周りのみんなはロンを見て、少しだけ不思議そうな顔をする。そしたら自分が説明してやるのだ、「幼稚園の頃からずっと一緒にいる」と。するとみんなは揃って顔を綻ばせ、あたたかくロンを迎え入れてくれるのだ。
「ねえロン」外では肩掛けカバンのロンだが、家ではベルトの付いたぬいぐるみだった。リビングで母とテレビを眺めていた真也は、画面を見せていたロンの顔を自分に向けた。
「大人になったらさ、きっとぼくこのお家を出て一人で暮らすことになるんだけど、その時もロンを一緒に連れていっていい?」
「もちろんだよ、真也くん」ロンは即答した。耳に届けられる母の声が、真也の中でロンの声に変換される。「どこにでも、連れていってほしいな」
「でもさでもさ、うちからずっと遠くに行くかもしれないから、アメリカとか行ったら、そしたらママとも他のみんなとも会えなくなっちゃうよ。それでもいいの?」
「大丈夫さ。夏休みとかに帰ってくることもできるから、ずっと会えなくなるわけじゃないよ。むしろたまに帰ってきた方が、パパもママもきっと喜んでくれるよ。だから真也くんがもし連れていってくれるなら、僕はどこまでもついて行くよ」
 ロンを抱く腕の力が、少しだけ強くなった。
 母に向けた真也の顔は、まだ汚れを知らない顔だった。まばゆいほど白かった。
「決めた。ぼくずっとロン連れてくことにする。だからママ、今のうちにロンのこといっぱいなでておいた方がいいよ」
「あら、ロンは真也と一緒がいいって言ったの?」
「うん」
「そっか、じゃあ今のうちにママもいっぱい撫でさせてもらうね」
 抱かれたままのロンの頭に、ひとまわり大きな手が置かれた。
「ママ、今なでとかなきゃいけないのはロンの方だよ」
 なぜだか真也の頭にも母の手が乗せられていたが、この時の彼にはそれが不思議でならなかった。
 ロンと出会ってもう二、三年になる。真也はまたひとつ、学年を重ねる。
 
 真也の移動手段は、自転車がメインになっていた。あってもなくてもよかった自転車教習を学校行事として受けてからは、玄関から見える距離の公園ですらペダルを踏んでいくようになった。新しくなった自転車はギアの調節ができるようになり、6段階のうち4をデフォルトにしてこぐのが真也の基本だった。5と6を奥の手のようにとっておく、それがどうしてだかカッコ良くて仕方なかった。高いギアで重たいペダルを強く踏めば、そのぶんだけ速く、遠くまで進んでくれる。そのとき風とともに浴びる何の根拠も無い成熟感が、真也の心を昂らせた。
 前面に付いた黒いカゴの中は、その日の用事によっては単体で入れられた3DSがガタガタ音を鳴らしていることもあるが、基本的には空の状態だった。小学校に上がる前から彼の相棒だった犬型のぬいぐるみは、外に出ればやはり肩掛けカバンとして機能していた。初めて出会ってから一度も調節されていないベルトの先にはロンがいて、月日を重ねるごとにほんの少しずつ、地面から高い位置で揺れるようになっていった。
 この日は久々に祖母の家を訪れた。自宅から徒歩でも五分とかからないこの家に真也は、数えるのも諦めるほど通い続けていた。だから一ヶ月でも間が空けば充分すぎるほどに「久々」なのである。ギア4のペダルを踏んで、通い慣れた道を辿る。
 時間が経てば、なんにだって変化が訪れる。これは最近新しくおぼえた真理だった。
 祖母の家でいえば、最近マッサージチェアを買ったらしく、たまに一緒に訪れる母が使わせてもらっている様を見るようになった。けれど裏を返せば変化という変化なんてその程度で、彼が尋ねてくれば必ずそこに祖母がいて、たまに祖父もいて、お菓子と飲み物で迎え入れてくれる。ずっと変わらないこともある。だから真也はこの家が好きだった。
「あっら、あんたまだそんな人形持って歩いてるの?」
 リビングに向かう途中の廊下、呆れにも慈しみにも似た顔で、祖母は言った。
「あんたそれ、もっとちっちゃい子が連れてる物じゃないの」
 あらあらと、笑みをたたえて祖母は言った。
 咎めているわけでも、決して馬鹿にしているわけでもなかった。悪意のひとつもない言葉だった。もとより祖父母というのは、誰よりも孫の成長に敏感な者達だ。大きくなっていく孫を見るのが、彼らが残された人生における糧の一つだ。人は絶えず変わり続けて行くことを、誰よりも深く知っている。まして瞬きするたびに大きくなっていく子どもなんてなおさらのことだった。
 だからこそ祖母は、真也の変わっていなかったものに気付けなかった。
 このとき彼を覆っていた薄いガラスの膜に、ヒビが入った。
 祖母の言葉の意味を理解するのに時間なんて必要なかった。そのうち誰かに言われるって、いつからか心のどこかで予期しはじめていた。けれど。
「帰る、やっぱり」
 部屋にすら入っていないところで、真也は踵を回らした。
「あらなんで、何か用事でも思い出したの」
「別に」早足で来たばかりの廊下を戻っていく。
「お菓子も飲み物もいっぱいあるんよ。せっかく来たんだからちょっとくらいゆっくりしていきなさいな」
「いい。もう帰る」
 祖母の顔は見れなかった。祖母はずっと大好きなままでいたいから。今その顔を見たら、決定的に何かが変わってしまう予感がした。
 数秒前まで陽の光で満ち満ちていたはずの真也の中で、得体の知れない何かが蠢いた。
「おばあちゃん何か気に障ること言ったかも。ごめん」
 後を追う祖母の声がだんだん届かなくなってくる。その声に「タブーに触れてしまった」ことを察したようなバツの悪さが滲んでいたことも真也は感じ取ってしまったが、心の扉が何もかもシャットアウトした。発してしまった言葉にもう取り返しはきかない。きちんと並べられていた靴に無造作に足を突っ込み、逃げ出すように外に飛び出る。その胸に、さっきまで肩から下がっていたぬいぐるみを力いっぱい抱き抱える。
 力任せにこじ開けた玄関の扉。いつも必ず言っていた「バイバイ」は残さなかった。
 振り返りもしなかった。
 片手でぬいぐるみを抱いたまま、もう片方の手で自転車のハンドルを握る。ギアを最大まで上げて、全力で踏む。逃げる。逃げる。何から? 逃げる。
 真也が抱く布と綿の塊のほかに、もうひとつ黒い何かが胸でじゅくじゅく音を鳴らしている。
 怒り、なんて言葉じゃ説明がつかない。悲しみとよぶには複雑だし、恐怖、それも混じっているのかもしれない。生まれて初めて味わう気味の悪い感触だった。それまで純真無垢に生きてきた反動なのか、それとも今まで目を逸らしてきただけだったのか。もしかして大人はみんなこんなものを飼いながら生きてるのか。兎にも角にも、爆発寸前の「真也」を乗せて、自転車は走る。
 結局のところ、この感情に名前はない。
 仮に強引にでもこの一連の出来事に名前を与えたとして、いつか真也はこう言うだろう。
「成長を知った」と。
 ただいまの一言もなく真也がリビングに飛び込んでくる。家を出て十分も経たずに帰ってきた真也の様子がどこかおかしいことを察しながら、母は声をかける。「あらどうしたの? おばあちゃんお留守だったの?」
 ソファに置いてあった毛布を引っ掴んで全身を包んだ真也は一言、「もう行かない」と呟いた。その胸にはぬいぐるみを抱いている。身を守るというよりむしろ、自ら頑丈な殻に閉じ込もったかのようだった。
「おばあちゃんと何かあったの?」
「もうあんなとこ二度と行かないから!!」殻の中で、真也は絶叫した。 
 
 
 どこかで誰かが言った。人間は、知識を得るたびに世界の解像度を上げていく。例えば学校で勉強する、あるいはテレビを観る、もしくはその体で経験する、など。知れば知るほど視界は広く、かつ鮮やかになっていく。時として世界は大きく揺らぎ、もしかしたら見たくないものまで見えてしまうかもしれない。それでも大切なのは学びを止めないことだ。世界の解像度に限界などない。
————そんなもの­­はまったくのデタラメだ。
 こんな狭く汚い世界なら、知らないまま生きていたかった。
 
 その日を境に、真也の神経は良くないものに対して敏感になった。今まで見ないふり、聞こえないふり、あるいは本当に見聞きしていなかったものが全部、全部、真也の中に流れ込んでくる。たったぬいぐるみひとつで引き起こされた、一生にわたる悪夢。その幕が開いたかのようだった。
 ああまだそれ使ってるんだ。
 まぁ別に悪いとは言わないけどさ。
 何それ。
 お前こんなん好きだったん?
 今までかかっていた世界のフィルターが、日を追うごとにばりばりと剥がれていく。見えてくるのは、本来の世界。
 今まで光で溢れていた真也のキャンバスに少し、また少しと、汚れが飛び散っていく。題名は「本来の世界」。
 それでも真也は、外に出る時は必ずロンを下げていった。どんどん短くなっていく未調整のベルトを初めて最大にまで伸ばした時、とうとうロンが腰にまで届くことはなかった。ロンを連れるもっともらしい理由をつくるために、初めてカバンとしての役割を持たせた。それまで使っていた財布を放り、ファスナーの中に小銭を詰めた。ずっと一緒だった相棒から歩くたびに金属の擦れる音が響いてくるのが気色悪かったが、それでも真也はロンを連れた。外を歩くときには、知らない人達の怪訝な視線から守るために、ロンを車道の反対側に隠すようにして歩いた。誰とも会わないよう、児童館が休館の日を狙って屋外遊具で遊んだ。ロンを膝に乗せてブランコを漕いでいる間も、危険な外敵と出くわさないよう、周囲にあらゆる神経を集中させた。攻撃されないよう、祖母の家には行かないようにした。
「大学生とかになっても、ロン連れてくから」宣言するように、自分に言い聞かせるように、母にそう言い放った。
 ロンは何も言わなかった。
 そして。
 
 休日の真也は、小学生にしては昼寝をすることが多かった。その時一緒に寝るぬいぐるみは彼の気分次第だったが、なるべくいろんな子を選んであげるようにという、普段から彼なりの気遣いがあった。この日はロンと一緒だった。隣のベッドには母も横になっている。
「ねえ。ロン」真也は話しかけた。
「なあに、真也くん」
「いつかぼくも、ロンと遊ばなくなっちゃうのかな」­­
「…………だから今のうちに、いっぱい遊んでね」
 それから真也はそれっきり口をつぐんで、ただロンの頭を撫でた。少しでこぼことしたロンの手触りが、真也は大好きだった。何度も何度も頭を撫でた。
 その手は、震えていた。
 
 
 予定時刻を十五分ほど遅れて、昼行の高速バスが地元の駅に到着する。
 ただの一睡もできなかった。凝り固まった全身を力いっぱい捻ってほぐしてから、僕はあらためて母に到着のメッセージを送った。ここから自宅までを大荷物を抱えて歩くのは流石にしんどいので、駅近くの待ち合わせ場所まで車で迎えにきてもらうことになっている。着替えで埋め尽くされたキャリーケースと家族へのお土産、それと運動不足の体を引っ提げて、慣れ親しんだ構内を突っ切っていく。懐かしさをさほど感じないのも当然か、半年にも満たないうちの帰省だった。メンテナンス不足の体から図らずとも漏れ出たあくびが、数ヶ月ぶりの地元にじんわりと溶けていった。
 大学に出てからも母とはしょっちゅう連絡を取り合っていたので、久々の再会だからといって別段懐かしむようなことも、珍しい会話もなかった。今日の夕飯の献立を訊いてはじめて、自分がまあまあの空腹状態だったことに気がついた。
 結局、大学は地元からかなり離れたところに決めた。理由は色々あるが、家族に邪魔されない完全なプライベート空間が欲しかったというのが一番大きい。要は一人暮らしがしたかったのだ。
 色々あったが、なんやかんやで今日も生き延びてる。
 中学に入ってからはだいぶ大人しくなったなと、自分ですらも思っている。だから小学校までの友人は今の僕を見たら別人のように思うかもしれないし、逆に中学以降の友人達は、昔の僕を知らない。何一つアレンジしていない僕の髪だけが、きっとこの両者をつなぐ。
 リビングに荷物を下ろして、夕飯まではまだ時間があるそうなので、先にシャワーを浴びることにした。夏休みとはいえ、ここ最近の暑さは異常だった。かつて毎日のように外で遊びまわっていた昔の思い出がにわかに信じがたいほどだ。
 なんの拍子か、脳裏にかつての記憶がよぎった。
 炎天下、蝉の合唱。陽炎の中を突っ切って行く自転車。汗どころか肌を焼く暑さすら気にも留めない様子で、少し重たいペダルをリズミカルに踏んでいく。向かう先はどこだったか。そこからの記憶がぼやけているから、行き先はさほど肝心ではなかったのだろう。
 いちばんはっきりと覚えているのは、その肩には。
 部屋着でリビングに戻り、数年ぶりに懐かしのぬいぐるみ箱を開けた。誰ひとり欠けることなく、昔のままの顔ぶれが残っている。
 その中の一匹を、手に取った。
 このぬいぐるみには長いベルトが付いている。このぬいぐるみは肩掛けカバンなのだ。カバンにしては容量が少し心許ないが、それでも、十数年分の記憶を一つにしまっておくには充分だった。
 僕は少し凹凸のあるその頭をそっと撫でた。ぬくもりのある手触りだ。
「ただいま」僕は言った。
 手が空いたのか、夕食の支度をしていた母がキッチンから出てきた。僕の持つ「これ」に気がつくと、その目を細めた。
「あら懐かしい。真也、ちゃんとロンにもただいま言った?」
 ふっ、と、自分の口角が上がったような気がした。
「言ったよ。『おかえり』だってさ」

幼い日をしまって / チあき

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