8歳の「しゃちょう」
りとくんが不登校になるというピンチをチャンスに変えて、どうせだったら一石三鳥くらいを狙ってしまえと、ぼくたちは株式会社 ritorium の事業をからめたチャレンジングな生き方を一緒に模索することにしました。
これが、8歳の「しゃちょう」りとくんの誕生の経緯です。
ですが、テクニカルな話をすると、りとくんの「しゃちょう」は正式な肩書ではありません。
日本では8歳の代表取締役は存在できない?
驚くことに、日本の会社法では株式会社の代表者や役員に就任できる年齢について規定されていません。
だったら、8歳でも代表取締役になれそうな気がしますが、よくよく調べると間接的に制限がかけられているんですよね。
それが、印鑑登録の年齢制限です。
株式会社(取締役非設置)の正式な役員になるには、登記の際に印鑑証明書が必要になるのですが、それを取得するための印鑑登録は満15歳以上でないとできません。
より設立難易度の高い取締役会設置会社にすれば、なぜか役員登記に印鑑証明書が必要なくなるため、親権者の同意書さえあれば何歳であっても取締役になることは可能なようですが、会社を実際に運営していく上で概ね10歳以上でないと認められないということです。
問われるのは意思能力
ではなぜ、10歳以上であることが求められるかというと、会社を運営するうえで必要となる契約など法律に基づいた行為が成立するには、意思能力が必要だからだそうです。
意思能力の定義としては、自分が決断したり行動したことの結果がどうなるかを理解できるということだとされています。
なるほど確かに、何かを決めたり行動することで何が起こるのかを認識して、その結果に責任を持つことができなければ、会社運営の責任を負うことはできないというのはうなづけます。
ですが、一体何歳から意思能力を有するのかというと、やはりこれも法律で定められているわけではなく、7~10歳くらいだろうという慣例になっているだけのようです。
こどもは意思無能力者…?
裏を返せば、明文化されていないにも関わらず、日本では7~10歳未満のこどもは意思決定能力がないものとみなされているわけです。
固い呼び方では、意思無能力者というなんとも差別的な響きのする専門用語があって、ちょっと驚きました。
もちろん、生まれたばかりのこどもは無力で、親や保護者の存在がないと生きることすらできません。
意思があったとしても、それを言葉などで伝えることもできません。
ですが、その状態から成長して行く過程で、こどもは自我を持ちはじめ、周囲の環境と相互作用を繰り返しながらよりはっきりした意思を持つようになり、そのうち「反抗期」も経ていくでしょう。
その成長過程のどのタイミングで本人の意志能力を認めるかは、本当に難しい問題です。
それでも、概ねこどもは意思能力を持たない意思無能力者として扱われています…。
「人類最後の差別」
この衝撃的なパワーワードは、何度かご紹介している孫泰蔵さんの著書「冒険の書」から引用したものです。
社会が発展するに連れて、大人とこどもは区別され、こどもは徹底的に守られるべき存在として独自の意思や自由を剥奪されてしまった。
そして、こどもがその権利を剥奪されている例の一つが、現代教育の場でもあるという論点にはとてもショックを受けました。
確かに、こどもは教育を受ける当事者であるにも関わらず、その内容を自分で決めることはできない立場にいます。
義務教育の中身は大人が勝手に決めたものですし、学校の校則も生活ルールも、大人の都合で決められたものでしょう。
でも、それに対してこどもが意見を述べて変えていく機会はないに等しく、実際教育のあり方はこの50年あまりほとんど変わっていないのが現実だったりします。
つまり、この現代社会は、良かれと思ってこどもを手厚く保護し、その代償としてこどもを「意思無能力者」にしてしまい、権利を取り上げ自由を制限している。
まさに、こどもを「差別」をしてしまっているというわけです。
人類はそのことにいずれ気がつき、この差別を乗り越えるだろう。
こどもに対する差別が解消された時、それは「人類最後の差別」となるだろう、とこの本の中で予言されています。
教育はこどものもの
会社法上の代表取締役に就任するための要件から、見えてきたのは現代社会がこどもをどのように扱っているかということでした。
無力な赤ちゃんから、日々成長し、自我を発達させていくこどもは、いつから自分の意志を持っているとみなすべきなのか。
正直、どうするのが正しいのか、答えはわかりません。
でも、ひとつ思うのは、教育はこどものためのものであり、そのあり方はこどもが決めるべきものなんじゃないか?ということ。
だからこそ、ぼくたちはこどもが自発的に楽しめることしかやりません。
株式会社 ritorium の「しゃちょう」であるりとくんは、そのことを忘れないようにする「さいこうせきにんしゃ」なのです。