不登校は、ぼくらのチャンス!
2015年生まれで今年9歳になるぼくたちの息子りとくんは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の特性を持つ小学3年生です。
その特性が学校の環境にあわず、みんなと同じようにできない自分を責めて、自分事が嫌いになってしまう状況に陥ったため、小学2年生の夏休み前から不登校の道を選びました。
りとくんを無理に学校に行かせない決断をしたことが、ぼくたちが目指す教育の目的を改めて見つめ直し、学習や人との関わりを保つ環境を自分たちなりに準備するきっかけになりました。
事の本質に立ち返って改めて現状と進むべき道を確認してみると、今の時代いろいろな選択肢があることがよくわかります。
最終的にりとくんが自分で自分の幸せを探して追い求めることができるようになっていれば、学校に通わなくてもなんとでもなりそうだな、と。
漠然とした不安
それでも、どうしても漠然とした不安は簡単には拭いきれません。
極端な例かもしれませんが、日本の国を動かす官僚のような仕事をしたいのであれば、しっかりと勉強をして、いい学校を出て、必要とされる知識やスキルを身に着けて行くことが必要でしょう。
あるいは大企業に勤めて、大きな組織の一員として安定した仕事と生活を送りたいというのであれば、やはりそこに選ばれるための素養や学歴を、確立された教育の中で身につけていく必要があるでしょう。
いや、そこまで望まないとしても、普通の企業に正社員としての職を得るのであれば、毎日学校に通っておくことはほぼ必須かもしれません。
こういったいわゆるエリート的・あるいは一般的とされる生き方に、りとくんが幸せを見出していく可能性もあるので、その選択肢を早い段階で失ってしまうとしたら、それは親として不甲斐なく申し訳ないと感じてしまいます。
でも、生まれてきてからこれまでの彼を見守ってきた親としては、りとくんはそういう生き方は選ばなさそうだなと感じるわけです。
とても手前勝手な決めつけなのかもしれませんが、りとくんの幸せはそこにはなさそうだな、と。
それよりも、その生き方につながる学校という場に無理やり通わせることで、彼自身が自分のことが嫌いになってしまったり、心の中に大きなフラストレーションを押し込めることになってしまう方が悲しいことなんじゃないか。
じゃあ、りとくんを学校に行かせない決断をすることで感じるこの漠然とした不安は、あまり意味のないものかもしれない。
むしろ、今無理に学校に行かせることは、ぼくたち親が不安を感じないようにするためのなのではないか。
親のエゴ
そうなんです。
これはあくまでぼくたちのケースなのですが、「こんな人生を歩んでくれたら幸せなんだろうな、安心なんだろうな」という気持ちは、まさに親のエゴでしかなかったんですよね。
子どもにはできるだけ選択肢を与えておきたい。
あとで後悔したくない。
そんな不安を回避したいから、固定観念にすがって安心したいだけなのかもしれない。
でも、実際誰かが作った常識に沿って、ぼくたち親が用意したレールの上を歩いてもらうことが結果的に子どもの幸せにつながるのか繋がらないのかは、ぼくたち親にはわかりません。
その結果を受け止めるのも、それを背負って先に進んでいくのも、結局は子ども当人でしかありません。
さらに、これだけ変化が早い時代、子どもが一人立ちして生きていく10数年後の未来は、もうぼくたちが知っている常識は通用しなくなっている可能性が高い。
手に入れたのは、親のアンラーニング
というわけで、息子のりとくんの不登校は、ぼくたち親が「普通」としていた教育のあり方をアンラーニングの機会を得る最高のチャンスでした。
当たり前だと思っていたことをゼロベースで考え直すことは、とても難しいことです。
なにか大きな外的要因が作用しない限り、なかなかそういうことに考えが及ぶことはありません。
りとくんが ADHD の特性を持っていたから、学校の環境に合わなくて不登校を選ぶことにしたから、ぼくたちは教育をゼロベースで考え直すことができましたし、それを阻む一番大きな要素が自分たちの親としての不安だったということにも気づくことができました。
そして、このアンラーニングは、りとくんの教育のことについてだけでなく、ぼくが兼ねてからやりたいと考えていた教育事業にも大きな影響を与えてくれました。
次回は、そのことについて書いてみたいと思います。