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壁の中の僕たちは。

「村上春樹って、つまらないよね」

彼は出し抜けにそういうと、煙草を吸って大きく息を吐いた。このビルにある唯一の喫煙室であるカフェの一角、僕が無心に読んでた本を覗き込んで彼はそう言った。

「話題だから買ってチャレンジしてみたんだよ。でもさ、どうしても数ページで眠くなるの。毎晩数ページ読んでは寝てだから、話がよくわからんのよ。もう枕の上のオブジェみたいなわけ」

僕は目線を上げて彼を見た。本にも相性というものがある。読めないなら読めないで構わないだろう。


「僕も最初の四分の一は苦痛でした。壁の中の穏やかな生活が続いてるだけだし、そこからどう転がるのかまったく見えなくて」

「な、そうだよな。やっぱさぁ、上手いんだろうけど一般向けじゃないんだよ」

彼は運ばれてきた珈琲を一口すすった。自分が一般の基準だと知って胸を撫で下ろすその顔を見て、僕は本に栞を挟んで丁寧に閉じた。

「壁とかさ、そんなの実際にはないじゃん?リアリティっていうかさ。影なんて太陽があれば当たり前にそこにあるだろ?な、不自然すぎてつかみきれん。文学ってのはどうも性に合わないみたいで」

「村上春樹の本は、ファンタジーなんですよ」

「あっ、そうなの?」


「そうなんです」

僕は冷めたカフェラテを一口飲んで続けた。

「多田さんと僕の間に壁はありますか?」

「え、あるわけないじゃん」

多田はわざとらしく手を上げて、僕に届かない程度で大きく動かして見せた。嫌味ではなく、思わず素直に手を動かした彼を僕は好ましく思った。


「うん、目に見える壁はないですよね。僕と多田さんは同じ会社に同時期に入って、同じ庶務課で働いて席も隣同士。だけどそれぞれの人生を歩いてきた、重なり合うことは決してない、全く別々の個体です。多田さんが何に傷ついて、何に怒るかも僕は知らない」

彼は意味を計りかねてるのか、空を見て何かを考えているようだ。目の前の珈琲の湯気が立ち昇っていくのを見ながら僕は続けた。


「僕とあなたの間には、目には見えないけど壁がある。もちろん比喩的な意味で。これは決して越えられることはない」

「うん、比喩的な意味で」

「比喩的な意味で使うのなら、僕らはいつでも壁を
作ることができる。例え目には見えなくても、「心の中に閉じこもる」という表現もあります。心の中にだって壁はできる。もっと想像力を働かせるのなら、心の中に壁を作って自由に出入りできるような街があったっていい」

「すごいな、お前作家になれるよ」

いやこれは村上春樹の本の話なんだけどね。と心の中で突っ込みを入れ、僕はさらに続けた。

「壁とか影とか、ありのままに受け入れてしまうのは素直で良い所だけど、ファンタジーの虚構をそのまま受け入れるのはあまり得策ではない。文字からイメージしていくんだ。その壁の街がどこにあるかなんてどうでもいい

例えば大切な人が、恋人が亡くなった時、どれほど嫌だろうと失われた感覚のまま僕らは生きていかなければいけない。そんなとき壁に囲まれて出れない街に入ることができたら、ずっとそこにいたいと思わないだろうか?失われた人たちの、失われた街。悲しみや、怒りとかもない。ただ心を癒していくだけの場所。だから、そこにある壁は必要不可欠なもの。ただし出たいと思えばいつだって出ることができる。それがその街なんだよ」

「ふーん」

「もしかしたら、気づいてないだけでここが壁の中街かもしれない。ここが壁の中じゃないなんて、誰が言った?」

僕はぽかんとしている彼の顔を見てニヤリとした。
実は先月飼い猫が亡くなったのだ。小さい頃からそばにいるのが当たり前だったから、あの甘えた鳴き声を聞くことはもうないのだと気づいたら家の中の景色がぐにゃりと変形したように感じた。

静かなその空間は、もしかしたらもう壁の中かもしれない。ぽっかり空いた穴を別のもので塞ごうとした。でもできなかった。きっとまだその時期ではないのだ。そう理解した時にはただひたすら涙が溢れた。暖炉の火がゆっくり体に染み渡っていくように、ここにいる自分が自分じゃないような感覚に囚われていく。現実と非現実の境目なんて、こんな簡単に無くなっていくのだ。

「実は、俺も3年前妻と別れたんだ。正確には離婚届だけ置いて消えた。一切連絡がつかなくて、必死で探して、探して。でも気づいたんだよ。彼女は探して欲しくなんかないんだな、って。それに気づいてから、色々どうでも良くなって、本にのめり込むこともできないんだ。あの本は俺にとって最良の睡眠薬なんだよ」

彼はさり気なく重い過去を暴露して、ニヤッと笑った。そうか、解けない謎はそのままでいいこともあるんだな。

ここが現実だろうが、壁の中だろうが、僕たちはこうして日々を生きていく。失ったままの僕らは、いつかこの世界に溶け込むできることができるだろうか。あるいは。


「すまん、珈琲が冷めてしまったな。一杯奢るよ」

「いや、もう時間だ」

そういって彼も時計を見ると、慌てて立ち上がる。

村上春樹だってきっと何かを失った人だからこそ、こんな話を書けたのではないか?

進んでいく時計の針は何の意味も持たないまま、壁の中の街で過ごしているような僕を、いつか受け止めてくれる存在なんて本当に現れるのだろうか。


ページも作者もいないこの世界では、自分の足で歩いてこの目で確かめるしかないのだ。僕らはそれぞれに会計を支払い、現実の街の影に溶け込んでいった。




※昨日やっと読み終わったー!
※熱いうちに読書感想文
※4分の1まで眠かったのは本当
※その後は面白かった
※結局は好きなものを読めば良いよ


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