たいてる

たいてる

最近の記事

三流カメラマン戦記 -二輪業界編②-

二輪での仕事に不安を感じ始めながら、細々と業界に留まっていた。 そんな折、ある企画を依頼された。 当時、新しく発売されたばかりのHONDAのゴールドウイングに乗って東京から神戸までツーリングをして記事にするという企画だった。 副編集長がバイクを運転し、私が後ろに跨がり撮影をする流れである。 その副編集長とは歳が離れていて、いわば昔ながらの体育会系だったので、 苦手意識が強かった。 しかし、どこの業界でもよくあることで電話で仕事を依頼される時に、 相手「何日空いてますか?」

    • 三流カメラマン戦記 -二輪業界編-

      ※今回書く記事は二輪業界全体の話をしているわけでなく、あくまで私が関わった限りなく狭い範囲での二輪業界について書いているので、全てがそうでないと初めに記載する。 二輪業界には独立してから4年ほど携わり、今は疎遠になっている。自ら身を引いたと言い換えてもいいかもしれない。 理由はもちろん私の力不足な部分が多いが、編集長が変わってしまったのが一番大きかった。 私が関わっていた二輪雑誌は、ツーリング企画が多くのページを占め、新車紹介などは少々。 ここでも底辺だったので、一軍、

      • 三流カメラマン戦記 -スクールフォト編②-

        私は折角フリーランスになったのだから、自分の好きなものを撮影して生きていきたい、と常々強く思っていた。 私は今年で40歳になったが、スクールフォトの現場でお会いするカメラマンの多くが年上で、中には(推定)70歳近い人も居る。 自分より年下にも遭遇するが、かなり希少である。 感覚的に平均年齢が45歳〜50歳くらいではなかろうか。 スクールフォト業界は高齢化が進んでいる、と先人のnoteに書かれていた。 確かにその意見には納得できる。しかし、 そもそも昔は若い世代もスクールフ

        • 三流カメラマン戦記 -スクールフォト編-

          スクールフォトの話。 これはあくまで私の経験したもので、業界すべてがそうということではないということだけ先に書いておく。 写真学校に通っていたころ、先生が言ったことが印象的で今も頭の片隅に残っている。 「カメラマンとして食いっぱぐれのない業種が、スクール系とブライダル系だ。」 実は私は会社員時代から、とある全国的にスクールフォトの販売を主軸とした会社(以下A社)の業務委託契約をして、かれこれ20年あまりになる。 前提として、私はスクールフォト業界の中でもやはり底辺であ

        三流カメラマン戦記 -二輪業界編②-

          三流カメラマン戦記 -営業編②-

          前置きをすると、私は今でいう(場面的)コミュ障である。 これまで、なるべく人と関わることがないようにひっそり生きてきた。 初対面の人と話すのは勿論緊張してうまく話せないし、目上の人となると尚更だ。 知人と食事をしても最初は楽しいのだが、段々疲れてきて一人になりたくなったり。 休日は誰かと過ごしたいという気持ちは強いのだが、いざ過ごしてみると面倒くさくなることが多い。 こうやって書くとどちらかというと社会不適合者だと気付いたりもする。 (本題) 時は2012年。 私が出版

          三流カメラマン戦記 -営業編②-

          三流カメラマン戦記 -営業編-

          結局、予定していた2年間をスタジオで過ごし、退職をした。 特に何かを自分のものにしたとは言えないし、何もかもが中途半端な状態で終わったのが本当のところだった。 当時はとにかく、一刻も早くフリーランスカメラマンにならなければ、という強迫観念に駆られ、見えない何かが私の背中を押していた。 スタジオ在籍中に既に営業はしていたので順番が前後するが、カメラマンの営業の話をしたいと思う。 一般的にスタジオ時代にクライアントと関係を持ってフリーランスになるのが理想的なのだが、残念なが

          三流カメラマン戦記 -営業編-

          三流カメラマン戦記 -下積み編③-

          東京に来て、一年が過ぎた。 それなりに忙しい日々で、いまだに慣れない環境に対応できずにいた。 東京生活でのストレスが思った以上に重く、気力が湧かなかった。 それでも休日はカメラを持って街に繰り出したり、スタジオで自習をしたりした。 東京のような大都市を撮るのは楽しかったし、目に映るすべてが新鮮だった。 それに引き換え、スタジオでの仕事は、地味でつまらなかった。 物撮り、誰かのポートレート、物撮り、物撮り、物撮り…。 毎日が同じような事の繰り返しで鬱々とした時間を過ごした。

          三流カメラマン戦記 -下積み編③-

          三流カメラマン戦記 -下積み編②-

          スタジオの機材について。 スタジオにはデジタル一眼レフの他に、HasselbladのH2という中判カメラが備えられていた。 正直私はスタジオに来るまで中判or大判カメラの存在を知らなかったので、何だか変なかたちのカメラだなーというのが第一印象だった。 ある時、中版カメラでポートレートを撮っているのを見たが、その圧倒的な描写力に只々圧倒された。 もし私がカメラと出会った時点でこの存在を知っていたら、恐らく中判カメラの道を歩んだのではないだろうか。 と思うのも束の間、かなり

          三流カメラマン戦記 -下積み編②-

          三流カメラマン戦記 -下積み編-

          皆さんはスタジオアシスタントに対してどういうイメージをお持ちだろうか? 薄給で、休みもなく毎日始発&終電が当たり前でひたすらコキ使わされる と考えている方も多いのではないだろうか? 安心してほしい。 少なくとも私の入社したスタジオはそれに当てはまらなかった。 給料は東京で生活するにはギリギリだけど、終電や始発を使ったのは2年間勤めて片手で数えるほどだ。接待飲みで終電を利用したほうが多いと思う。 土日休みだが、休日出勤もそれほど多くもなかったし、それほど遅く残業したこともな

          三流カメラマン戦記 -下積み編-

          三流カメラマン戦記 -序章②-

          カメラマンになるためには、スタジオアシスタントを経験しながら作品を作り、自分の関わりたい媒体へ持ち込むことが王道だろう。 私の場合、モータースポーツを撮りたかったのでスタジオカメラマンのアシスタントになるつもりは毛頭なかった。 が、尊敬するレーシングフォトグラファーの先生にそのことを伝えると、「スタジオでの経験はしておいたほうがいい」と助言頂き、 スタジオアシスタントの求人を探すことにした。 しかし大きな壁があった。 ・スタジオアシスタント経験者 ・専門学校卒業 そも

          三流カメラマン戦記 -序章②-

          三流カメラマン戦記 -序章-

          私は現在フリーランスとして12年ほど関東で写真の仕事をしている。 といっても、最初の7年ほどは写真一本ではなく、副業をしていた。 コロナ前にやっと写真一筋でやっていけそうだと思えるようになった。 こうやって偉そうに書いてるとさも名のあるカメラマンだと思われるかもしれないが、全くの無名である。 私の名前をWeb検索すると、同姓同名の野球少年の活躍のほうが多くヒットする程度に無名である。 三流とタイトルに記載したのは謙遜などではく、純粋に技術が足りなく、カメラマンとして人様に名

          三流カメラマン戦記 -序章-