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学術戦線異常なし

 机目当てに買ったポテトフライは、とっくの昔にクタクタになっていた。脂ぎった机の上には、手汗でベタついたMacBookと大量のレポート用紙、書き散らした付箋紙と、疲れて机に突っ伏した友人が乗っかっていた。深夜のバーガーキングはお客も少なく、いつまでも机に残っていたのは、わたしたちだけだった。

「……お客様。当店は、そろそろ閉店のお時間なのですが」

店員の呼びかけで、わたしはハッと意識を取り戻した。

「ああ、すみません」
「今、片付けます!」

 わたしは急いで机を片付けると、荷物を持って席を立った。レポート用紙が何枚かざざっと床に落ちて、それをなんとか掴み上げて、前のめりに店を出て行った。友人もノロノロと立ち上がると、わたしの後をついてくる。

「……ごめんね。付き合わせちゃって」
「ホントだよ」

友人は寝不足の目を擦りながら呟いた。

 お店はどこもしまっていた。冷たいシャッターを背にして、わずかな街灯の下、わたしたちは小さな会議を開いた。教授につっかえされた論文のどこが良くなかったのか。明日の大会の締切には間に合うのか。今から計算プログラムを走らせて、本当に終わるのか。もっと効率的なアルゴリズムはないのか。そもそも、こんな研究テーマはわたしたちには向いていなかったのではないか。わたしは理系なんか選ばなかった方が良かったんじゃないか。

「……ねえ、やっぱりこの研究、やめようか」

わたしは言った。

「え? ここまできて?」

友人は驚いて言った。

「だって、もう時間ないよ。締め切りは明日だし。今から別の研究を始めてたら、絶対間に合わないよ」
「でもさ……」

わたしは続けた。

「それにさ。わたしたちがやろうとしていることって……なんか、別にたいそうなことじゃないじゃない。新しいアルゴリズムを考えたとか、画期的なデータ構造を発明したとか。完全自立型の人工知能を作ったとか。そういうものじゃない。本当にどうしようもない、はっきり言えばお遊びみたいな研究に時間を費やしているだけじゃない。こんな研究、きっと誰も認めてくれやしないよ」
「まあ……そうかもしれないけどさ」

 目が重たかった。風が冷たかった。なんとか惰性でペンを動かして文章を添削しても、さっきから間違えてばかりだった。街灯に、弱々しい蛾が止まった。人のいない商店街は、寂れた未来都市のようだ。ガラスとコンクリートと鉄。光と熱をみんな道路に奪われてしまって、暗く冷たい、金属でできた彫刻みたい。素晴らしい人やすごい人たちは、みんなそれぞれの場所に行ってしまって、取り残されたのは自分だけ。

 わたしはMacBookの画面を閉じた。シャッターにガシャンと体を預けて、意識がすうっと背中に倒れていくのを感じた。分厚い夜色コートが、実家の羽布団みたいにやわらかく思えて、わたしはそのまま目を閉じた。

 目に浮かんだのは、子供の頃によく読んだ図鑑だった。小学館の図鑑。宇宙、地球、植物、大昔の生物、科学、物理、化学。分厚い図版に圧倒されて、わたしは日が暮れるまで頁をめくっては、文章と写真に読み耽った。学校から帰ると、ごはんを食べるのも忘れて、よく図鑑を机の上に開いた。目次をたどるだけで幸せだった。知らない世界がどんどん広がっていくようで、心が躍ったものだ。

 始めてインターネットにアクセスした時。無限の情報に、目が眩んだのを覚えている。ハードディスクがカリカリと音を立てるのに聞き惚れて、見よう見まねでプログラムを書き写した。

「将来は、学者さんかな?」

母が尋ねてくる。

「うん。科学者がいい」

と、わたしは答えた。あまりにも無邪気だった。

「科学者になったら、みんながあっと驚くような発見をして、図鑑にのるんだよ!」

 あの頃のわたし。まだ何も知らなかった、純粋なわたし。いつからだろう。図鑑の頁を開くのが、しんどくなったのは。疲れていたのかもしれない。人はあまりにも忙しくなりすぎて、世界の全てを知ろうとすればするほど、何もかもが遠ざかっていくような気がした。何も手に入らないような気がしていた。子供の頃に感じた胸の高鳴りを、どこかに落としてきたような気が……

「ねえ」

 友人の声で目が覚めた。わたしは冷たいアスファルトに横たわって、うとうととまどろんでいたのだった。時計を見たら、子供の頃には考えられなかったぐらいの、深い時刻だった。

「……あしたさ、教授に言おうよ。終わりませんでしたってさ。いいじゃん、大会を辞退しても。どうせ、あたしたちの論文が通るはずがないんだから」

 友人は、MacBookを閉じかけた。

「でも」
「……何?」

友人が聞き返す。

「……もう一回、文章を書き直そうよ」

 はぁっと友人がため息をついた。そして、あははと笑った。わたしも、つられて笑った。

「いいよ、わかった」
「ありがとう」

 キーボードのタイプ音。風に飛び散るレポート用紙。ノートと叫びと、「動いた!」の歓声。

「プログラムはどう?」
「異常なし!」

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