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悪魔のささやき、天使のかかし

 天使はかかしだった。都会という麦畑のあぜ道を見下ろしている、白い服着たかかしだった。シンプルな丸顔に可愛らしい目。物干し竿みたいに手を伸ばしているけれど、まるで人間の子みたいに麦わら帽子をかぶっていた。服は白のTシャツで、大きすぎて袖がだぶだぶしていた。

 表参道は、おしゃれなとこだと人は言う。けれども天使は、そう思えなかった。道端には空き缶やペットボトルが散らばっていた。人が多すぎて、なんだか変な匂いがする。昔の団地は消えてしまったし、春の小川は地面に埋められてしまった。天使は、地下に埋まった春の小川をもう一度掘り返してみたいと思っていた。たとえそれが、ドブだらけの下水道だとしても。

 ナイキの前の植え込みで、天使はポツンと立っていた。天のお告げはまだかなと、待ちくたびれていた。麦わら帽子を脱いで、ぱたぱたとあおいだ。

「あんたも暇こいているんだな」

 地下鉄の通風口から、聞き覚えのある声が響いた。天使は「だれだっけな」と、麦わら帽子を手に持ってあたりをきょろきょろした。

「ここだよ」

 通風口から顔を出したのは、いかにも悪そうな顔をしたネズミだった。ネズミは隙間から這い上がると、ちょこんと植え込みに腰かけて、天使を見上げていた。ネズミの黒い尻尾がピクビク動いている。それを見ていると、どうも麦わら帽子で叩きたくなる。けれども、天使はそれをがまんした。

「お久しぶりですこと」
「まあまあ、怒るなよ。長い付き合いじゃねえか」

 ネズミは、うーんと伸びをすると、ミューンと姿を変えた。悪魔だった。テカテカした黒髪に、おしゃれなちょび髭。黒い革靴に、ルーズなジャケット。すかした中折れ帽。悪魔と言われなければ、ちょっとした美容師かエグゼクティブだ。

「お前の仕業か。この街をいけすかない街にしたのは」
「おかげさまで、すくわれたよ。ありがとうな」

 悪魔はふてぶてしく笑った。天使はむっとしたけれど、麦わら帽子をぽんぽんと手でたたきながら黙っていた。

「私は、人間がこの地に美しい田園を作るのを見守るように命じられたのだ。それなのに、このありさまだ。おまえの仕業か?」
「おれがやったという証拠でもあるのか」

悪魔は天使を見透かしたように笑った。天使は頭に来て、悪魔を麦わら帽子で叩きたくなったけれど、ぐっとがまんした。

「証拠はない。だがな……」
「まあ待て。おれは何もこの街をめちゃくちゃにしたわけじゃねえ。ただ、ちょっとばかり人間の心根を変えただけさ」

悪魔は天使の言葉をさえぎって続けた。

「見栄だよ。こいつはややっこしいものでさ、金や物を持っているとか、立派な家を建てているとか、世間体みたいなもんで人の値打ちが決まるのさ。だから貧乏人はいつまでたっても貧乏だ」
「それがどうした」

天使は悪魔の物言いにムッとした。悪魔はべらべらしゃべり続けた。

「いいか、行動ひとつでこの街をどうにでもできるってことなんだぜ。高飛びする奴もいれば、会社を倒産させる奴もいるし、女遊びが過ぎて性病になる奴だっている。つまるところ、人間の運命なんてそんなものさ」
「しかしな……」

天使は口ごもった。悪魔はゲラゲラ笑った。

「少しは、リサイクルすべきだ。こんなに地面を固めてどうする。この妙な容器だって、いつまでも残る。ほら、私の鼻を見ろ。こいつは、この容器の蓋なのだが、もう二十年も姿を変えていない。まったく腐らないのだ。これは問題だ」
「この文明ってやつはですねえ、天使様。無駄が多い方が、いいんですよ。それが、高度資本主義ってやつさ。無駄があるから、人生に楽しみが生まれるんでさ」

悪魔はにやにやして言った。天使の眉間に、しわが寄った。

「人間は贅沢だよなあ。五階建てのビルなんて建てちまいやがって、こんなに地面を埋めちまって……。おかげで私はこの通りだ。もう何年ここに住んでいるか分からないぜ」

 悪魔は鼻をひくひくさせた。天使もつられて自分の鼻に手をやった。確かに悪魔の言うように、天使は自分の鼻がどこについているのか分からなくなっていた。春の小川はいつの日か、岸のすみれはティッシュペーパーに。サケやマスは、酒やMassに。

「人間が、ずいぶん変わっちまったな」

天使は頭に来て言った。悪魔はにやにやしていた。

「変わらなきゃいけないのさ。人間は変わりながら生きているんだ。人間だけじゃない、形あるものはすべて変わるのさ。そうしないと、生きていけないんだよ」

天使には分からなかった。この鼻も耳も口も、みんな自分の物だと思っていたのに……。

「しかし、お前だって……」

天使が言いかけた時、地下鉄の通風口がガタガタと音を立てた。悪魔はあわてて、ネズミの姿に変わった。

「わりい。取引の時間だ」

 悪魔はずるそうに笑うと、通風口の中へと姿を消した。地下鉄の出口からは、いけすかない顔がにゅっと突き出た。まるでゴルゴダの丘だった。その後ろには、銀色に輝くカメラを持った男が立っていた。天使は思わず鼻を押さえて身を引いたが、男はすでに通り過ぎていた。

「神は死んだのだな」

 天使はしみじみとつぶやいた。人間たちを創ったのは、神だったけれど、今はもう誰も神を信じていない。どうしてなのだろう? それはきっと、人間が勝手になりたがっているのに、神がちっとも手助けをしてくれないからだ。だからみんな、自分で何とかしようとあくせくするのだけれど……。

 天使は麦わら帽子を目深にかぶると、植え込みの陰から立ち上がった。そして「やれやれ」とつぶやくと、ぴょんと跳ね上がって、かかしから人間の子供の姿に変わった。

「転職しよっかな」

 そうつぶやいて、天使はとぼとぼと歩いていった。そのうしろから「へっくしょん」というくしゃみが聞こえたけれど、それはきっと、脱ぎ捨てられたかかしの、ただのくしゃみだったのだろう。

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