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勝手に書評|くらしのアナキズム

松村圭一郎(2021)『くらしのアナキズム』ミシマ社

国家への疑問

「国ってなんのためにあるのか?ほんとうに必要なのか。」(p.8)そんな問いから本書は始まる。

現代の日本で生まれた私たちにとって、国家とは「当たり前に存在するもの」である。国家があることで、一応の平和が保たれ、決まりごとやルールが機能し、人権や人命が守られる。言うまでもないほどの大前提だと私たちは認識している。いや、認識すらしていないのだろう。

しかし、本書で様々な人類学的調査が引き合いに出されながら明らかになっていくのは、国家がなくとも人類は秩序を維持する仕組みを部分的にであれもってきたということだ。国家がない集団だからといって、殺しや強姦、強奪が頻繁に起こる「未開」で「野蛮」な無法地帯にはならないというわけだ。更に別の角度から見ると、国家が法律や制度を完備したとしても、問題をかかえる人がそれを有効活用できないという現実もある。

ここでまず、読者は国家は絶対的に善な存在ではなく、相対的で時には悪にもなりかねない存在だということに気付かされる。

「権力」と「合意」のプロセス

フーコーは、権力は手に入れることができたり、手放したりできる所有物ではないという。権力は、あらゆる関係に内在する。それは権力がなにかを禁止したり、拒絶したりするような上に位置するものでなく、むしろ下からやってくることを意味する。(p.71)

権力は下から生まれるものだとすると、権力を持ちうるのは必ずしも国家だけではない。共同体のリーダーや首長が権力をもつということも頻繁に起こりうるのだ。しかし、ここで鍵となるのが「同意」のプロセスである。レヴィ=ストロースが調査したニューギニア諸島、あるいは宮本常一の調査した集落における寄りあいのエピソードから見えてくることは、首長の役割は決断を下すことではなく同意をえることだということだ。

レヴィ=ストロースは、「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだといった。それはあきらかに民主主義の理念そのものだ。(p.93)

もう一つ、共同体のリーダーとして面白い事例が挙げられている。ヤムイモづくりに励むニューギニア諸島の男たちは、収穫が終わるとそれらを畑の周りに陳列する。それを見て、どの人がどれだけ作物を育てられたかという評価が行われる訳だが、男たちは収穫したヤムイモを大半は首長に貢納として渡し、残りもすべて自分の家族に分け与える。男たちには「よき畑づくり」「有能な畑作り」という称賛だけが残り、それが彼らの誇りとなる。

彼らは競いあって、自分が食べもしないヤムイモづくりに勤しみ、惜しげもなくそれを与える。マリノフスキはいう。「彼らにとって、所有するとは与えることだ」(p.209)

リーダーたちは自分の利益のために動くものではなく、共同体のために働くのだ。そして得られたものは分け与える。そうすることで、リーダーである「わたし」が社会的関係の束の中で形成され、「わたし」のものとなっていく。

暮らしを取り戻す手段としてのアナキズム

ブローデルは、資本主義を[反ー市場]の力だととらえた。市場(いちば)が小規模な「商い」と「安定した日々の仕事」の場だとしたら、資本主義は大きな資本をもとにリスクをとれる者だけが膨大な利潤を手にできる「投機」の場である。(p.130)

国家や資本主義という顔のしれない存在に日々の生活が支配されていく。街で困ったことがあれば交番にかけつけ、必要なものがあればネットを開いて市場(しじょう)でコスパの良い商品を購入する。

しかし、本来、生活とは顔の見える他者と手を取り合って行うものだったはずだ。くらしの中で起こる問題を、政治家や専門家に丸投げするのではなく、自分たち自身で対処しようとしてみること、あるいはその自覚が求められている。これこそが私たちの暮らしを取り戻す手段であり、名もないアナーキストの考え方から学ぶべき点である。

コロナ禍においては、目にも止まらぬ速さで、様々な情報が飛び交い、交錯している。これを国家や政治家、専門家といった誰かが解決してくれるものだと思ってしまったら、その途端に、権力者の思うつぼになってしまう。私たちの暮らしを取り残して、彼らの思い通りに社会や経済が回りだす。そんな動きがあちこちでちらついている。大事なのは、問題に対処する力は顔の知らない他の誰かではなく、自分たちの中にあるという自覚と誇りなのではないだろうか。情報を鵜呑みにせず、周囲の人たちと「対話する」こと。それが現実的に力を持つコミュニケーションになると同時に、眼前の問題に取り組むための重要な出発点になるのではないだろうか。私はここから始めてみたい。

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