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部分の美学。 日本の芸術が教えてくれる多様性へのまなざし


部分の美学


「美学」


最近辿りつたこの言葉が私は大好きだ。「美を学ぶ」。何を美しいと感じるかは人それぞれだけど、その人なりの「美学」を持っている人に私は憧れてしまう。それはものづくりだけでなく、生き方にしても考え方にしても。言葉でなくて、オーラで感じるその人の持つ美学




そんな私は相変わらず、古典的な日本芸術の本が好きで、このコロナ渦の1年間相当な本を読んだ。その中でも今言葉に惹かれている高階さんが綴る本たち。



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高階さんは美術学者で西洋美術史の専門家であり国立西洋美術館の館長をされていた方である。高階さんの解説はわかりやすく、日本と西洋の「美」へのまなざしの違いをしっくりくる言葉と流れで綴られている。絵画を主軸に、建築、工芸、能など多角的な視野でものの見方を教えてくれる。現代では、「美しい」という言葉はどこか一線の先にあって、「綺麗」とか「素敵」と言った類似言葉の方がより親しみを感じる。だからなんだか「美しさとはなにか」という言葉は少し強すぎて、古典的なことのほうへ強い壁を作ってしまう。

でも、決して蔑ろにしてはいけないことだと最近すごく考える。


SNSの発展で多様化する世界、本物へのアクセスは簡単になった。それが日本であろうが、海外であろうが。いいねが多いものや、誰かが良いと言ったものが、「良いもの」として扱われることが多いが、果たして本当か。立ち止まるとなんて安易な人任せの美学なんだと自分のことも含めて反省する。


本当に感動した時は涙が出るし、鳥肌がたつし、見惚れるし、そのまま時間が経つ。時にそれをそばに置きたくなったり、自然とその先にあるもの想像したり、そこまでの長い長いストーリーが知りたくなる。


そんな感情体験を一瞬のスクロールで失ってはいけないと感じるようになった。


世界にアクセスが簡単になったからこそ日本の眼の根底を理解し、自分なりの眼を持ちたいと思うのだ。SNSでおさまる文字数では理解しきれない深い深い美しさをきちんと私は学びたい。


部分の美学


日本庭園と絵
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トリミングされた部分から全体を想像する豊かさ。決して全体を見せることなくても部分から全体が浮かび上がる。浮かび上がるものは人それぞれの経験や文化に任せられる。


この美学のように創造の広がりを私は楽しみたい。

多様性をより豊かにする美学の1つ。

「部分の美学」は絵画から来るが、なんだかその美学はいろんな世界を見る一つのレンズになるような気がしている。


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そんなある日


外国の友達の1人が、わたしの自然への興味は庭の美術としての一面が大きいのかもしれないねと教えてくれた。その答えは分からないがわたしはすごく驚いた。「あぁ、そうか。」と腑に落ちる感覚をくれたのた、日本の眼では見えないことがたくさんあると気付かされた。



好きなことや探求を楽しむ彼らの眼は、どこか1点を真剣に見つめているようで、その背景に大きなおおきな世界を感じる。


部分からその先へ。



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