見出し画像

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

フランス絶対王政時代の王家の増長の象徴として語られるマリーアントワネットのこの言葉は、困窮にあえぐ国民の怒り買い、フランス革命へと時代が進むキッカケになったともいわれているが、

「〇〇の代わりに△△を使えばいいじゃない」

すなわち
「無いものの代わりに、別のものを用いればいい」は、
時として、なかなかの発明品を生むこともある。


「赤ワインがないのでしょうゆを入れた」

明治時代の日本。
西洋の食文化が入ってきた時代。
日露戦争で、無敵と恐れられたあのバルチック艦隊を破った海軍の名将と呼ばれた東郷平八郎が、若いころに留学した際に食べたビーフシチューの味を忘れられずに、部下に作らせようとした。

しかし、当時の日本の、しかも船の上では、ビーフシチューを作るのに必須の調味料である赤ワインがなく、困った料理人たちが試行錯誤を重ね、赤ワインの代わりに醤油を入れて作ってみた試作品としてできた料理が、今や和食の定番「肉じゃが」の発祥だったそうだ。

ビーフシチューと肉じゃが。
牛肉とジャガイモ、玉ねぎなど共通する食材はあるものの、
それ以外は味付けも違うし、糸こんにゃくなどのアレンジも入っていて、決して肉じゃががビーフシチューの失敗作だったり、下位互換であるようなイメージはない。

それどころか、おふくろの味の定番として、またかつては女子が男子に作ってあげたい料理の筆頭格として、確固たる地位を築いている「日本の味」へと成長を遂げている。

発祥は失敗作だったのかもしれないが、料理としての完成度は極めて高い。
もしくは、日本食として定着していく中で改良され、クオリティを高めていったのかもしれない。

また、肉じゃがは、かつて獣肉を多食しなかった日本人の食生活を変え、米食が盛んになった江戸時代以降、蔓延していたタンパク質不足、ビタミン不足からくる脚気(かっけ)という病気の罹患率を大きく下げることとなったとも言われている。

もし、艦上の料理人たちが、赤ワインが無いからとあきらめていたら、肉じゃがは生まれなかったのかもしれない。

無いなら無いなりに、どうにかしようとして努力を積み重ねた結果が、ビーフシチューではなかったが、後世に残る大発明となった。

今あるもので、最大限の努力をすることで思わぬ発見や功績が生まれる。
無いものを欲しがって、無いことを憂いてもしょうがない。

今できること、今いる場所で精一杯努力しよう。
思い描いた形とは違うかもしれないが、何かを成し遂げられるかもしれない。


……などと、ここまで偉そうに書いておいて恐縮だが、

冒頭のマリーアントワネットの言葉、どうやらこれは、彼女が言った言葉ではなかったようである。
ジャン・ジャック・ルソーの自伝「告白」の中で、彼女の言葉として“創作”をしたらしく、それが、彼女が実際に言った言葉として、流布してしまったというのが真実とのこと。

そしてさらにもう一つ、
東郷平八郎の肉じゃが創世神話だが、こちらもどうやら、後世の作り話のようだ。
しかもその話が作られたのは1990年代、ほんの30年ほど前。
発祥の地とされる京都府舞鶴市や広島県呉市が、町おこし、ご当地グルメとして定着させたようだ。

話の起点として持ち出した名言と、エピソードの両方が「真実ではない」ということになってしまい、話の腰を折られたどころか、話が成り立たない状態になってしまったが…


「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というフレーズのインパクトはかなりのものだ。
我々が歴史を学ぶにあたって、フランス革命、ひいては絶対王政の終焉という大きな区切りの際に登場する古い体制側の象徴として、全世代が共通して知っている「名言」である。
この名言という濡れ衣を着させられたマリーの犠牲があって、皆の記憶に強烈に印象付けられ、フランスが世界に誇る「自由・平等・友愛」というアイデンティティの構築が行われたのである。

肉じゃが発祥伝説は、京都府舞鶴市の町おこし事業に大きく貢献している。
発祥の地として、この舞鶴市だけではなく、広島県呉市も名乗りを上げており、20年以上にもわたって「論争」を巻き起こすことによって、肉じゃがと海軍の町としてのPRの材料として利用されている。
いうなれば、全く事実がないところから、プロモーションとして大きな存在価値を生み出し、維持し続けているのである。


プロパガンダの大成功の事例としての“マリーの言葉”。
町おこしというプロモーションの成功例としての肉じゃが発祥伝説。

事実ではないところから生み出された歴史や経済を動かすに至る、壮大な「言葉の力」に感嘆するが、同時に昨今のSNSの炎上騒動など、悪意のある「デマ」や「作り話」が、あっという間に世の中を駆け巡り、止められない力となって、世の中を塗り替えていくことに恐怖を覚えたことを思い起こした。

AIによって情報を集める力は、今まで以上に増すことになるだろうが、その情報の真偽、善悪や隠された意図を読解する力こそ、今我々は養わなければならないのではないか。

話の流れが思わぬ方へ動いてしまったが、今昔の情報戦の妙を振り返り、そんなことを感じた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?