連載「若し人のグルファ」武村賢親18
目の前に丑尾の眉がある。形の良い薄めの小山眉だ。わざわざ長く見せようなんてこともしていないから、閉じ合わされたまつ毛もきれいに揃っている。
珍しく丑尾よりも先に目が覚めた今朝は、かすかに雨の音が聞こえるじっとりとした朝だった。リモコンを探して冷房を入れる。ぬるい空気の層が肩の上でゆらいだ。
昨晩、玉輝を送り届けて帰ってくると、もうその必要はないのにソファとマットレスをつなげた三人用の状態で寝床がつくられていた。すでに丑尾が寝間着に着替えて横になっており、面倒くさいから今日はもうこれで寝ると、半ばふてくされたような表情で枕をふくらませていた。俺も玉輝に振りまわされて疲れていたので、なにも考えず、そのまま並んで眠りについたのだった。
俺の肌かけは、どこへいったのか。
あごを引いて見降ろしてみると、丑尾の太ももとふくらはぎの間に丸くコンパクトになって収まっていた。寝ぼけ眼で距離感を測りかねてか、肌かけを引き出そうと伸ばしたひじに、丑尾の高い体温が触れた。視覚に頼らず敏感になった前腕に、それは内ももの温もりと判断できた。
丑尾は左肩を下に横寝して、左右の脚をすこしだけ重ねるようにして眠っていた。右手は顔の前で空気を包むように握られていて、左腕は脱力に任せて自然と伸び、短く整えられた爪が天井の隅を指している。
起こしただろうかと身を引いたが、呼吸は深く長くしていて、ぐっすり眠っているようだ。
その表情はどこまでもやわらかく弛緩していて、あぁ、やっぱり女だな、と思わせられるには充分だった。
普段から、無意識に緊張させているのだろう身体中の筋肉は自然な状態に戻っていて、こころなしかすくめられた肩や、シャツの裾からのぞく腰のくびれ、膝頭の小さくかわいらしいさまなど、男にはない曲線美がいたるところに見て取れた。
肌かけを引っ張り出して、きっといまならいたずらをしてもばれないだろうと、人差し指で頬をつつく。
わずかに眉をひそめて、丑尾が仰向けに寝直った。
俯きがちだったあごが持ち上がり、喉元のしわが引き伸ばされて唇がわずかに開かれた。
鼻でしていた呼吸を口でするようになり、上下する胸のふくらみが重力に従ってたおやかに広がる。
眠りが浅くなってきたのか、丑尾の左手が動いて指の股で梳くようにして前髪をかき上げる仕草をした。手のひらの下の、生え際の蔭が白かった。
「うぅん……」
すこしして、小さく唸った丑尾のまつ毛がうっすらと開いた。眉間にはっきりとしたしわを寄せて、天井をにらみつけたまま目をしばたたかせている。
目を覚ました丑尾の身体は、身を起こすとともにたちまち普段の緊張を取り戻していき、女らしいなだらかな曲線美をあっという間に隠しさってしまった。
しかし男らしくなったかというと、そういうわけでもない。女を遠ざけて男を演じる丑尾の身体は、そのちょうど中間あたりを弥次郎兵衛のようにゆらゆらゆれ動いて見える。
玉輝はこの中途半端な感じを天使のようだと言ったのだろうか。たしかに中性的に見えるが、神秘的と言うには程遠い。
身体を起こした丑尾は時計を確認して素早く立ち上がると、顔を洗いに洗面所に立ち寄って、それからキッチンの流し台に手をついた。課の準備をはじめるようだ。
流し台下の収納には丑尾の大工道具専用の研石が収まっていて、毎朝すぐに取り出せて、またすぐ片づけられるようになっている。
シンクに一定量の水を溜め、研石にたっぷり水を吸わせる。その間に道具箱から鑿や鉋を取り出して、ひとつずつ刃の状態を確認しながら流し台の横に丁寧に並べた。
砥石が充分に水を吸ったら、今度は蛇口から水を注いで石の表面に水流をつくる。口を真一文字に引き締めて、丑尾は鑿を取り上げた。かすかに鋼と石とが触れ合う音が聞こえる。
ッシッ、ッシッ、ッシッ、ッシッ、ッシッ、ッシッ、ッシッ……。
もうすっかり聞きなれてしまって心地良さすら感じる摩擦音を遮らないよう注意しながら、ソファの背もたれを静かに起こし、マットレスをたたんでロフトに押し上げる。
丑尾は朝食を取らないで、朝の時間をすべて道具研ぎに宛てるのが常なのだが、今朝はいつもより早く起きたこともあってか、砥石を片づけた丑尾は昨日つくった炒め物の残りを温めて食べた。それから俺が洗い物をやっつけている間に通勤の身支度を整えてしまって、玄関で靴を履きながら、じつはな、と改まる。
「明日、親父がこっちにくるらしい」
「おやじさんが?」
振り返らない丑尾の背中におやじさんの背中が被る。丑尾は母親似で、おやじさんには全然似ていないと俺の両親は言っていたが、肩の広さや笑ったときの目尻のしわなんかはまるっきり一緒だと俺は思っていた。
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