掌編「ガラスを踏む」武村賢親

 どうにも居たたまれなくなり、話題を変えようと、萩村は谷戸が読んでいる本について訊いてみた。谷戸は萩村から受け取ったハンカチを左膝の上にのせた右足首に巻きつけながら、カフカを読んでいるんです、と簡潔に答えた。前足底を覆う白と黒のチェック柄のハンカチの下から土踏まずの外側まで、赤い筋が細々と伸びている。

「カフカの『審判』を読み返しているんです」

 知っていますか、訴訟の話なんですけど、主人公のヨーゼフ・Kが三十歳の誕生日の朝、突然逮捕されるんですよ、その罪状が最後まで不明のままなんですけどね、最初から最後まで訴訟への不安感が拭えない、結局Kは処刑されちゃうんです、石切場で心臓を抉られてね。

 カフカなんて、「変身」くらいしか知りませんでした、主人公が毒虫になっちゃうやつ、と萩村が言うと、そんなものだと思いますよ、カフカの作品って暗いイメージが強いですから、イメージというか、実際暗いですしね、と言って谷戸は苦笑いを浮かべる。七時八分の電車が、忙しない通勤時間とは思えないほどゆっくりとした速度でホームに進入していくのを、萩村は横目で確認した。

 自動販売機横のベンチに二人して腰掛け、浅い知識でカフカの話をする。谷戸は文学が好きで、一つ作品を読んだなら、その作家についても知らなければ気が済まない。しかし、好きなのは文学を読むことで、文学を研究することではないから、作家について二、三知っていることが増えればそれで満足してしまう。よって谷戸の知識は広く浅くといったところで、萩村自身は読書よりもテレビ鑑賞が専らだから、カフカの話が大いに発展するということはなかった。

 駅舎へ急ぐ通行人たちの多くが、この弾まぬ会話をする二人に、というよりも、主に谷戸に対して、一言、二言、挨拶をして通り過ぎていく。萩村はまだこの町に越してきて日が浅かったが、谷戸が毎朝、作務衣に裸足といったけったいな出で立ちで駅前ロータリーのゴミ拾い活動をしていることは知っていた。それどころか、この谷戸という男は大変に人当たりが良く、毎朝通行人に、その良く通る声で丁寧に挨拶していることも知っていた。
萩村もその挨拶に応える大多数の内の一人だったのだが、たまたま今朝は勝手が違った。

 萩村は隣町で缶ビールなどの酒類を扱う卸問屋に勤めており、運転はしないが、商品を運ぶ社用車に同乗し、お得意様への挨拶回りを兼ねて新商品を売り込んだり、小売店からの提案をメーカーに取り次いだりなどをして、社内ではその成績の良さから一目を置かれていた。納品時の短い時間で、長居をせず、お知らせのチラシだけを残して去っていく萩村の手法は、後日改めて商談に訪れた時に効果を発揮する。事前にチラシを読み込んだ顧客との対話は円滑で、メーカーに提示するプレゼン資料も、この細やかな策略に乗じて通り易かった。東京の本社から転勤して来てすぐに成果を上げたので、評判も上々。ただこの時期は新入社員への教育期間でもあるため、トラブルの処理や新人歓迎コンパなど、酒の席での同僚の悪ノリに付き合わされたりもして終電を逃しがちになっていた。

 結局、今日も朝帰りをして、眠気と酒気に抗いながら駅舎を出たのである。その時刻には既に、谷戸はビニール袋と長トングを携えて駅前ロータリーを徘徊していたのだが、萩村にはどうもいつもと歩き方の様子が違うように見えた。すれ違いざま、いつものように挨拶を交わす際、視線を落とした先で結構な出血が目に入り、咄嗟に、どうしたんですか、と声を掛けたのが事の発端である。

 甲の側で二重に片結びをし、二三度足指を開閉して締め付け具合を確認する谷戸の足元には、嵩の三分の一ほどのゴミが溜まったビニール袋が二つ、長トングと共に置かれていた。

 今日は多いんですね、とゴミ袋に視線を注ぐ萩村に、新学期ですから、と応えて谷戸も足元を覗き込む。二週間ぐらい経ちましたかね、だんだんみんな慣れて来て、ポイ捨て意識が緩くなってくる頃なんですよ、と言って谷戸は袋を持ち上げた。トングが転がってアスファルトとの間に固い金属音を響かせる。

 四月のこの頃と九月がゴミの増える季節なんですよ、あとはイベント事の、クリスマスとかお正月とか、すごいですよ、こんなベッドタウンを模した田舎でもこんなに散らかるものかと思うほど収穫があります。

 谷戸の話を、萩村は革靴の爪先で地面をつつきながら聞いていた。砂利が入り込んだのか、先程から踵の辺りでごろごろしている。それが妙に気になっていた。

「もう長いんですか、このボランティアは」

 裸足で歩いても危なくない街づくりをモットーにしているんです、と谷戸は萩村に説明した。月二回ほどの清掃ボランティア活動を主催している谷戸は、町内でそこそこ有名である。裸足の有無は反対意見の方が多いらしいが、谷戸は持ち前のひとたらしな声色で非難を抑制しているのだと、アパートの隣住人から聞いた。谷戸が文学に凝っているという話も、この噂好きなご婦人から聞いたのだった。

「清掃活動だけなら、もう随分長いですよ。靴を脱いだのは比較的最近ですけどね」

 七時二十三分発の電車がホームに吸い込まれていく。のんびりできてもあと一本だな、と萩村は頭の中で時刻表を思い浮かべた。東京の、次々とホームに進入して来る車両群を見慣れていると、この町を横切る電車の本数は驚くほどに少ない。慣れるまでは三本ほど余裕を持って通勤し、つい逃してしまっても大丈夫なようにしていなくてはならない。本当は一度アパートに戻ってYシャツだけでも着替えようと思っていたのだが、流石に知人の流血沙汰には酒で麻痺していた良心も覚醒するしかなかったようである。

 谷戸が地面の長トングを拾い上げ、少し掻き混ぜるようにしてゴミ袋に差し入れる。もう長いこと使っている長トングは所々緑色の塗装が剥げていて茶色い錆が目立っていた。

「ガラスが落ちていたので、踏んづけてみたんです」

 前置きもなくそんなことを言うので、萩村は最初、谷戸が何のことを言っているのかわからなかった。しかし、はにかむ谷戸の視線が、彼自身の右足に注がれているのに気付くと急に背骨の関節が固くなったように感じた。

 こんな活動をしていますから、足裏の固さには自信があったんですけどね、ええ、思ったより鋭かったみたいで、見事に、一センチくらい裂けちゃったんですよ。尖った小石の一つや二つはどうってことないのにねぇ。

 谷戸は作務衣の胸元から一組の雪駄を取り出して足元に放った。無造作なその動作を、萩村は呆気にとられて見ていた。彼が履物を隠し持っているとは夢にも思ったことはなかったのである。きれいに揃って落ちた雪駄を突っ掛けて立ち上がると、和物の履物に洋物のハンカチは随分と浮いて見えた。裸足の谷戸を見慣れていたために、この男は履物と最も縁遠い存在なのだろうという印象を萩村は持っていた。

「雪駄、持ち歩いていたんですね」

 谷戸はにっこり笑って、大雨の日とか、風の強い日なんかは履いていますよ、知りませんでしたか、と言った。萩村も立ち上がる。二人とも同じくらいの背丈だったが、雪駄分だけ、今朝は谷戸の方が目線は高かった。今日はもう大人しく帰りますね、ハンカチ、ありがとうございます、と言い残し踵を返して離れて行く谷戸の背中を、萩村は一抹の気味悪さを持って見送った。上体と下体で、妙にちぐはぐして見えた。

 いくら自信があったからといって、自ら進んでガラスを踏もうだなんて、そんな考えに思い至ることがあるのだろうか。

 七時三十七分の電車が滑り込んでくる。次の電車には乗らなければならない。

 萩村も踵を返して、駅舎の方向へと一歩踏み出す。その時、体重を支えて地面を踏みしめた爪先に鋭い痛みが生じた。萩村はつい、あっ、と大きな声を上げた。慌てて革靴を脱いで逆さまにしてみると、小さな砂利粒が一つ、音もなくこぼれ落ちた。

完 

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